「全部自分たちでやるということ」変わらぬ芭蕉布への姿勢 平良敏子さんを悼む 與那嶺一子(県立博物館・美術館主任学芸員)


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平良敏子さん=2021年5月22日、大宜味村喜如嘉の芭蕉布会館(喜瀨守昭撮影)

 平良敏子先生の訃報を受けたのは14日の夕方。不思議なことだが、前日に1970年に撮影された映像(沖縄県公文書館で公開)で仕事に専念する敏子先生を見て「50年以上、先生の仕事は今も変わらない。エプロンと頭に三角巾をかぶる姿も変わらない」と感じていたところだった。訃報に接し、先生のそういうお姿は、沖縄で染織に携わる者たちの励みであり、誇りだったと、しみじみと思う。

 芭蕉布について問われ、先生は「自分たちでバショウを育て、繊維を選別し、選別した糸で布を織りあげる、それを全部自分たちでやるということ」と答えている。糸づくりをする織物産地が減少する中で、芭蕉布はそのスタイルを今も保ち続けており、この現代社会では希(まれ)なことである。

 先生が、戦後、倉敷紡績の大原総一郎氏らに織物の復興を託され、沖縄に戻ったのは27歳。そこから始まった芭蕉布づくりは、あの映像のように日々黙々と進められ、72年には沖縄県指定無形文化財「芭蕉布」の保持者となり、芭蕉布づくりの共同作業は74年、国の重要無形文化財「喜如嘉の芭蕉布」に指定される。その後、2000年には国の重要無形文化財「芭蕉布」保持者(いわゆる人間国宝)となる。その間、芭蕉布は喜如嘉から沖縄、さらに日本を代表する染織品へとなり、先生の功績は大きい。

 喜如嘉の芭蕉布の国指定50年の節目に向けて意欲を持っておられたので、悲しみとともに残念でならないが、今は敏子先生が安らかに旅立たれることを祈りたい。
 (県立博物館・美術館主任学芸員)