報道の課題を話し合うマスコミ倫理懇談会全国協議会の第64回全国大会(盛岡市)に合わせ、参加メンバーが9月30日、10月1の両日、東日本大震災の被災地を取材した。釜石市の釜石東中学校と同鵜住居小学校、陸前高田市の気仙中学校は一人の犠牲者も出さず、当時「奇跡」と称されたが、背景を取材すると、備えが生かされたことが見えてくる。震災から11年半、教訓を伝える取り組みは続いている。
釜石東中学校と鵜住居(うのすまい)小学校は海岸近くの河口に隣り合って建っていた。震災発生時は部活動中。停電で校内放送が使えない中、生徒らは自らの判断で校庭に避難し、整列し、すぐに避難行動を開始した。
「普段から避難訓練をしていたので、訓練通りに動けたんです」。震災の教訓を伝える「いのちをつなぐ未来館」の職員、川崎杏樹さん(26)は、生徒が避難した経路を歩きながら説明する。川崎さんは震災時、釜石東中学校の2年生。「奇跡」の当事者だ。
最初に避難したのは、あらかじめ避難場所と決めていたグループホーム。その後、被害の大きさを察知し、さらに高台へと避難を続けた。
青い海からやってきたのは黒い塊。潮の香りに下水道が混じった嫌な臭い。空気がひやっとしたのは海が丸ごと近づいてきたから―。川崎さんは肌で感じたことを表現する。「ここで津波を見て『死ぬのか』と思った」「この道は全力で走った」。簡素な語りが、かえって緊迫感を与える。
「学校を出る時間が早かったのが大きなポイント。防災学習のおかげで、考えるより先に動くことができた」。当事者の言葉が重く響く。
陸前高田市の気仙中学校は、被災地で最も海に近い学校だった。3階建て校舎の高さを超える14・2メートルの津波が到来した。現在、校舎は被害を伝える「震災遺構」となっている。
天井パネルがはがれ落ち、コンクリートがむき出しになった廊下や教室に、津波で流された木材などが押し寄せている。
職員室の時計は、最初の地震が発生した午後2時46分で止まったまま。窓からは、震災後に建設された気仙川河口の水門が見える。
震災時は、職員室の窓から海が見えたという。赴任したばかりの校長は海の近さから避難計画を見直し、防災学習を重ねた。「大津波が来るときは水が引き、川底が見える」という教訓を聞いたのも、防災学習の一環だった。その言葉通り、水が引いているのを見て、早期の避難が実現した。
震災遺構となった気仙中は、物言わぬ語り部として、津波の恐ろしさと学ぶことの大切さを伝えている。
(稲福政俊)