『忘れられた詩人の伝記』 純粋すぎた「戦争詩人」


社会
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『忘れられた詩人の伝記』宮田毬栄著 中央公論新社・4600円+税

 大木惇夫という詩人の名が、戦中派には懐かしい。太平洋戦争の開戦間もなく、報道班員として動員された作家・詩人の一人として、ジャワで詠(うた)った「戦友別盃(べっぱい)の歌」を、私たちは己が青春に照らして記憶している。

 「言ふなかれ、君よ、わかれを/世の常を、また生き死にを/…/わが征くはバタビヤの街、/君はよくバンドンを突け/…/見よ、空と水うつところ/黙々と雲は行き雲はゆけるを。」
 20代で北原白秋に絶賛されて、藤村、白秋を継ぐ抒情詩人として一世を風靡(ふうび)するまでになるが、抒情詩人はやがて戦争を抒情で受け止めることになり、戦後は多くの知識人が知らぬ顔で韜晦(とうかい)した中で、ひとり愚直に「戦争詩人」の汚名をかぶって生きた。その生涯を文芸編集者の娘が、十数年をかけて、1500枚を超える伝記にまとめた。
 定形抒情詩の世界に漬かりきった純粋な詩人は、実生活には初恋の人を妻とし、その病没後は恋愛と借金という不幸をかさねたが、その伝記が、背後に日本近現代の戦争と文学との確執を見せている。
 娘である著者は、家に遺(のこ)された断簡零墨の価値をも十分に生かしきって、詩人の業績を伝えた。
 詩人は、戦争ゆえに声価をおとした戦後にさえ一流の出版社に支えられ、全国の校歌、社歌の作詞を量産する。ただ、純情にすぎた。私生活は悲惨であったが、その苦しみと関わるように、晩年の詩業の中には、『唐詩選』(訳)、『釈尊詩伝』『キリスト詩伝』がある。神の領域を目指した営みといえようか。
 要所々々で確実に詩作品をちりばめて、さながら曼荼羅(まんだら)絵巻を織りなすようになった。それらがすべて語彙(ごい)豊富な定形抒情詩であるさまを眺めては、ジャンル自体に運命を切り刻まれた悲劇かとさえ思わせられる。
 詩人の生活をも詩をも、娘は愛と憎しみをもって、真実に対応して描いた。こうして、特に一冊の後半は、伝記を超えて長編小説の観さえあり、日本的抒情の権化を描ききったものとも見られるのである。(大城立裕・作家)
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 みやた・まりえ 1936年、大木惇夫の次女として東京に生まれる。早稲田大学文学部仏文科を卒業後、中央公論社に入社。文芸誌「海」編集長などを務めた。現在、文筆・講演活動を続けている。

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