途絶える支援、日本移住地と格差も…埋もれた「失敗」体験も記録 沖縄ボリビア協会が元移民に聞き取り


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ボリビアへの元移民から聞き取りを始めた沖縄ボリビア協会の伊佐仁会長(右)と移住当時の体験を語る新城ソヨ子さん=7月、南風原町

 沖縄ボリビア協会はこのほど、ボリビアから沖縄に戻ってきた元移民への聞き取りを始めた。戦後、琉球政府の計画移民として送り出された人は約3200人。日米両政府から十分な支援が得られない中、自力での対処を強いられた計画移民の多くが南米の他の国に移ったり、帰国したりした。記録が残る人の多くは成功体験で、「失敗」体験は埋もれてきた。沖縄移民史を掘り起こす取り組みとして注目される。

 ボリビア移民の多くは、琉球政府の計画移民として1954~64年に渡航した。沖縄を統治していた米国の支援の下で行われたもので、米国には、基地建設のための土地接収で農地を奪われた人々の不満や人口過密の解消、経済支出を少しでも減らす狙いがあった。現地で県出身者らが土地の確保に動いたことも後押しした。

 琉球政府は現地視察を経て、米国政府の支援を取り付け、各市町村を通じて移民を募集。第1次の400人の募集に4千人が殺到し、選考を経て第1次移民団は54年6月に那覇軍港を出港した。しかし当初の「うるま」移住地では感染症が流行し、15人が死亡。移動を余儀なくされた。

 沖縄ボリビア協会は今年7月に聞き取りを始めた。県内に住む県系1世や2世ら約20人に聞く予定。55年の第3次移民団として渡航した新城ソヨ子さん(86)=南風原町=は、ほとんど経験がないまま助産婦として働いた。当初は医師もおらず医薬品も不足する中、知恵や機転で乗り切った体験を証言した。

 米国の支援は途絶えたものの、沖縄は日本ではなかったため、日本政府からの援護も受けられなかった。沖縄以外の本土出身者の日本人移住地との格差も生じ、多くが同国を離れた。定住率は9.84%にとどまる。沖縄ボリビア協会の伊佐仁会長(62)は「1世が少なくなっているので、早く聞き取りを進めたい」と話す。 (中村万里子)