【年表あり】沖縄からボリビアへ移民、どんな歴史をたどった?米国が計画移民を支援した背景は?


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
汽船「チサダネ号」に乗船する第1次ボリビア移民団(県公文書館所蔵)
小山 あゆみさん

 琉球政府のボリビア計画移民は、米国政府の支援の下で進められた。米国が支援した背景について、県出身で東北大学大学院国際文化研究科博士後期課程に在籍し、日系移民史や教育史を研究する小山あゆみさんは、米国が占領していた沖縄での経済的負担を削減する狙いや、共産主義の拡大を防ぐためにボリビアで影響力を行使する意図があったと指摘する。

 世界各地の県系移民は戦後、沖縄戦で荒廃した沖縄の救援運動を展開した。ボリビアでも戦前から県系人がいた北東部の町リベラルタなどで「沖縄戦災救援会」が発足。「沖縄村」を建設し、移住者を迎え入れようと土地の確保などを進めた。

 こうした動きは沖縄にも伝わり、米民政府や琉球政府などの委嘱を受け、1952年に米スタンフォード大のティグナー博士が、南米各国の沖縄出身者の活動状況などを調査。土地を視察し「適地」と報告した。

 調査をまとめた「ティグナー報告書」は、米国政府の支援につながった。報告書などを基に小山さんは、米国が計画移民を支援した背景について(1)沖縄での社会経済開発にかかる米国の支出削減(2)中南米での共産主義の拡大を防ぐ―の主な2点を挙げる。米国はキューバ革命をはじめ、中南米での反米・共産主義の拡大を警戒していた。

 ボリビアでは、52年に「民族革命運動」があり、中道政党の民族革命運動党を率いるパス・エステンセロ大統領が新政権を樹立。南米大陸の中央に位置し、地理的にも重要な同国が米国の自由主義にとどまるよう影響力を行使し、大統領ら政権内の穏健派を支持する政策をとった。

 米国が反共体制の整備などを目的にした「ポイントフォア計画」を通じた技術支援もその一環で、琉球政府の計画移民の支援には、ポイントフォア計画の資金も使われた。ボリビア政府にとってもインフレの悪化や食料輸入の急増に対応する必要があり、国内の労働人口を増やせる移民は利点があった。

 しかし、米国政府の支援はやがて途絶え、計画移民たちは苦境に置かれた。沖縄出身者と本土出身者の移住地は別々で、小山さんは「待遇の差があった」と指摘する。オキナワ移住地には当初、インフラや教育、医療も整っておらず、感染症の流行で移動を余儀なくされた。たびたびの洪水で農作物も被害を受けた。

 こうした中、計画移民のほとんどが南米の別の国に転住したり、帰国したりした。定住率は9.84%にとどまる。一方、本土の日本人移住地には日本政府が支援を続けた。沖縄返還を巡る日米協議の場で66年、外国にいる県出身者の保護は第一義的には日本政府が当たることなどで合意。オキナワ移住地へのJICA(国際協力機構)による支援にもつながった。

 小山さんは「のちに『棄民』と言われるほどのボリビア移民だが、優秀な人材が多く渡ったため、現在においても教育が重視され優秀な人材が多く輩出されている」とも指摘する。南米からの出稼ぎやそのまま帰国を選んだ人たちに関する研究はほとんどされておらず「移民問題の中に埋もれている状態だ」として、沖縄ボリビア協会の聞き取りの取り組みを「意義がある」と強調した。
 (中村万里子)