下地イサムが20周年 父の還暦祝いの替え歌が「バズって」はじまったキャリア 発音、響きが化学反応「宮古言葉」で紡ぎ続け


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20年の活動を振り返る下地イサム=12日、那覇市泉崎の琉球新報社

 宮古島出身のシンガー・ソングライター、下地イサムが今年でデビュー20周年を迎え、29日に記念ライブを控えている。ミャークフツ(宮古言葉)の独特な響きを生かした作品作りに込めた思いなど、これまでの活動を振り返ってもらった。 (聞き手・田中芳)

 ―デビューのきっかけは。

 「父の還暦祝いに贈った替え歌が『バズった』ことがきっかけ。宮古の言葉だけでブルースを歌った。宮古の人はネットワークがすごく、あっという間に吹き込んだカセットテープが口コミで広まった。ラジオ局でも『ライブをしてくれないか』ということでさらに電波に乗っかった」

 ―タイトルは「サバぬにゃーん(Lost my sandal)」。

 「『ぞうりがないぞ』という意味。失恋のラブソングの歌詞を宮古の言葉にまるごと入れ替えた。隣近所へお祝いに行く時に、大宴会場にみんなが履いてスリッパや島ぞうりが集まる。酔っぱらって、他人のぞうりを履いて帰る人がいるため、帰ろうとした時には自分のぞうりがない状況を歌にした。生まれ育った久松地域のことを歌ったつもりだが、宮古全地域に同じ現象が起きて、皆の『あるある』という感じ。意外と普遍性を持っていた」

 ―オリジナル曲のほとんどを宮古の言葉を使っているが、当初から方向性を決めていたのか。

 「最初は面白半分でやっていた。そこまで可能性を秘めているみたいなものは、全く気づいていなかったし、プロの道に行く考えもなかった。ただ、自分で曲を作れるかもしれないという、自分の中に新しく光が生まれているみたいな感覚はあった。言葉がリズムに乗って転がっていくみたいな感覚が好きだった」

 「宮古独特の発音しにくい響きが、全部相まって化学反応を起こした。2枚目のアルバムを作れたことが自信になり、音楽の世界に進もうと決めた」

 ―音楽作りで、宮古の言葉を残したいという気持ちが強くあるのか。

 「残したい気持ちは、活動して10年くらいして意識が強くなってきた。磨けば光る言葉だ。消滅の危機と言われて、話す人がどんどん少なくなり、何年後かには誰も話している人はいないと容易に想像できる。言葉は残したいと思ったら宿題みたいになる。負担を背負うことではないし、義務感を抱いて残していくなんてことは、逆にやってはいけない」

 「自分にできることは音楽なので、もう無理だと思うところまでやってみる。前の作品で全部出し切ったと思ったが、違うアプローチが見えてきたらどんどん曲が作れてしまう。だから奥が深い」

 ―音楽を通して望むことは。

 「自分の歌を聴いて、子どもたちが口ずさんでくれたら本当にうれしい。何十曲と曲を作っていくうちにいつの間にかボキャブラリーが入ってきて、今は話せるようになった。音楽をやりながら、若い子たちの力になるということも考えたいと強く思う」

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 下地イサムの20周年記念ライブが29日午後5時から那覇市の桜坂劇場で開かれる。ゲストは新良幸人、島袋優、内田勘太郎。入場チケットはすでに完売した。11月5日まで視聴できる配信チケット(3千円)のみ販売中。購入はZAIKOの公式サイトから。