沖縄振興開発、「自ら構想」へ転換を 真喜屋美樹(沖縄持続的発展研究所所長)<女性たち発・うちなー語らな>


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 8月に、1960年代の高度経済成長時に政府の地域開発のモデルとされた四日市市を訪れた。今年は、72年7月の四日市公害裁判で、原告の公害患者9人が企業6社に勝訴してから50年になる。当時の政府の成長政策の重点は拠点開発方式で、最先端のコンビナートが林立する四日市は地域開発の模範生と思われていた。しかし、経済成長の要であったコンビナートの煙は深刻な大気汚染を引き起こした。中央主導の高度成長がもたらす亀裂は、地域に暮らす一人一人がその帰結を背負うこととなる。

 今もコンビナートの高い煙突の光景が広がるその場所は、かつて四日市で最も美しい海岸であったという。今夏、時折工場から排出されるばい煙のにおいが漂う工業地帯に隣接する住宅地を歩いた経験は、地域開発について改めて考える機会となった。

 72年の日本復帰に伴い、基地依存経済から脱し健全な沖縄経済の構造をつくるために設けられた政策が、沖縄振興開発特別措置法に基づく沖縄振興開発計画であった。復帰後の沖縄の地域開発はこの計画から始まった。第1次沖縄振興開発計画の柱の一つ、「本土との格差是正」は、全国平均の約6割であった沖縄の所得水準を8割にすることを目指していた。復帰から10年で所得水準を6割から8割に上げるには、おのずと急速な高度成長路線を取らざるを得なかっただろう。沖縄の地域開発の中核を担う沖縄振興開発計画は高度成長路線であった。

 復帰に先立ち、琉球政府をはじめ琉球大学や財界人を中心として構成された沖縄調査団などが公表した沖縄開発構想もまた、本土で60年代に展開された拠点開発と同じようなものであった。しかし、高度成長を導くはずの拠点開発は、四日市にみるように既に地域格差の是正に失敗し、開発地域の住民の福祉向上にもつながらないことが明らかになっていた。

 沖縄の地域開発は、沖縄の人々の福祉向上を目的として計画され、実施される必要があった。実際、初代沖縄県知事の屋良朝苗は、68年に主席に当選した際の就任あいさつで「県民の福祉を最優先に政治を行う」と述べている。他方、その屋良主席が率いる琉球政府が70年に策定した「長期経済開発計画」も、60年代の拠点開発政策の後追いであった。

 復帰から50年、沖縄はこの間どれだけ汗をかいて自ら地域開発構想を立て努力したのか。沖縄振興計画による行財政で産業を保護し牽引(けんいん)する現状から転換し、持続可能に発展する地域開発の「沖縄方式」創出へとかじを切りたい。そのヒントは沖縄の中にあることを、この場で考えていきたい。


 まきや・みき 沖縄県振興審議会委員、内閣府沖縄振興交付金事業等評価検討会委員などを歴任。名桜大准教授を経て沖縄持続的発展研究所所長。早稲田大大学院、博士(学術)。専門は都市政策、地域開発。共著に「沖縄論」。