普久原恒勇さんが1日に亡くなったことを受け、音楽関係者からは、戦後沖縄を代表する作曲家の死を惜しむ声が聞かれた。
心が痛い
普久原さんが作曲した「芭蕉布」や「ふるさとの雨」の作詞をした吉川安一さんは「心が痛い。先生との巡り会いがなければ、私の詩は家の片隅でホコリをかぶっていただろう。共に作った作品は宝物だ。沖縄の音楽文化を担い、その豊かさを多くの人々に再認識させた『至極の作曲家』だった」と悼んだ。
普久原作品の作詞や楽譜集の解説などを手掛けた上原直彦さんは「『惜しむ』としか言えない」と言葉を詰まらせた。
巨星墜つ
歌手・音楽プロデューサーの知名定男さんは「普久原さんとの出会いがあり、僕は音楽に目覚めた」と話す。知名さんは20歳を過ぎたころ普久原さんにギターを習い、洋楽に興味を持った。「楽理を教わり、私もポップスを手掛けるようになった」という。「芭蕉布」のオリジナル盤収録では、ギターを務めた。
演奏家としても卓越した故人の姿を思い返す。「お父さんの朝喜さんと共に、沖縄の新民謡の草分けだった。普久原さんと照屋林助さんの影響があり、今日の僕がある。非常に大きなものを失った、大きな星が一つなくなったような、寂しい思いだ」と声を落とした。
高校生のときから普久原さんの下に通っていた照屋林賢さんは「父(林助)の設立したマルテルレコードと、マルフクレコードは商売敵のはずだが、父と恒勇さんは仲が良かった。マルフクの仕事の手伝いをし、アレンジもさせてもらうようになった」と振り返る。「普久原さんは、それぞれの持っている才能を生かしたいという気持ちが強い人。人の良さを伸ばすことにたけた人だった。亡くなり、ショックだ」とため息をついた。
琉球交響楽団バイオリン奏者の高宮城徹夫さんは、普久原作品をオーケストラで演奏する試みなどを通じて、普久原さんと親交を深め、12月も一緒に公演を企画していた。「沖縄の音楽を万人に分かる形で残したすばらしい先生だった。コラボという形にとどまるのではなく、一体化させていた。『普久原』ともいえるような独自のジャンルを確立されていた」と功績をたたえた。
応援してくれた
普久原さんの作品を特集した「芭蕉布~普久原恒勇作品集~」などを手掛けたリスペクトレコードの高橋研一さんは「内地の人、沖縄の人間の区別なく、沖縄の音楽を愛する人を応援してくれた。偉大な先生だが、大上段に構えることもなく、気さくにアドバイスをくれた」と人柄をしのんだ。
(藤村謙吾)