沖縄的な知性の至宝 普久原恒勇さんを悼む 新川明・ジャーナリスト


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2人が出会ったコザ高校(現在の正門)

 2日午前5時、地元二紙を手にする。変わりない日常生活の始まりであった。

 いつもの手順でまず両紙を並べ一面を見る。「普久原恒勇さん死去」の大見出しが私を痛打、雷に打たれたような衝撃を受け、掲載されている恒勇の笑顔の写真に「ツネオ!、ツネオ!」と呼び掛けるしか言葉はなかった。

 思えば永い付き合いである。1946年、八重山石垣島から引き揚げてコザ高校に転入したとき、初めて出会いがあり、妙に気が合い、仲良くなった。そのため、今日でも「コザ高校5期、普久原恒勇は同期生だ」というのがボクの自慢となった。

 ツネオは、コザ高校を中途でやめて大阪へ行き、疎遠になったが、59年勤務先が大阪になった時、再会し、さらに弟の朝弘(作詞家朝比呂志=故人)とも親しくなった。

 ツネオは、作曲500曲を超える不世出の作曲家であり、優れた音楽プロデューサーでもあったが、沖縄の芸能はもとよりヤマトの芸道への造けいも深く、さらに文才もあって、たとえばエッセー集『ぼくの目ざわり耳ざわり』(2019年、琉球新報社刊)は、エッセイストとしての面目躍如の好著である。

 沖縄の、沖縄的な知性の至宝ともいうべき存在の喪失の大きさを思わざるを得ない痛恨の思いに身を焼かれている。
 (ジャーナリスト)