【評伝・普久原恒勇さん】根っこに庶民の歌 語り続けた「音楽には国境がある」


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1975年頃の普久原恒勇さん

 普久原恒勇さんと最後にお会いしたのは先月20日だった。12月18日に沖縄市で予定しているコンサートについて、ご自宅でお話をうかがった。「オーケストラの演奏で民謡を歌うという初の試みだ」と語り、琉球交響楽団との共演を楽しみにしておられた。それから12日後の訃報だった。

 普久原さんが紡ぎ出した作品は従来の沖縄民謡の枠を越える斬新さと親しみやすさを兼ね備えていた。沖縄の民族楽器を用いた音楽絵巻「史曲・尚円」「詩曲・響(とよむ)」の画期的な試みと県民の愛唱歌となった「芭蕉布」のような大衆性が共存するところに普久原メロディーの魅力があった。

 マルフクレコード創業者の養父・普久原朝喜の下で沖縄の音楽に親しみながら大阪の音楽学校で西洋音楽に触れた。そのことが普久原メロディーの多様性や豊かさにつながった。

 そして何よりも庶民が歌い継いできた民謡に音楽の根を求めた。「民謡の中には沖縄の真実がある」「身体の中に音色や、庶民の感覚がなければ、絵に描いたような民謡しか生まれない」と普久原さんは説いた。沖縄の人々の心に染み入る名作はこの確固たる信念に裏打ちされている。

 1990年代以降の「オキナワンポップ」という新しい沖縄音楽の源流となる作品を生み出した普久原さんには伴奏者がいた。そけいとき、ビセカツ、久米仁、坂口洋隆、上原直彦、とりみとり、朝比呂志、吉川安一らウチナーンチュの琴線に触れる言葉をつづった作詞家とホップトーンズ、フォーシスターズをはじめとする歌い手たちである。この伴奏者のおかげで普久原さんの作品は輝きを増し世に広まった。

 沖縄音楽のパイオニアは波瀾万丈(はらんばんじょう)の青年期を送った。軍隊式の敬礼を求めた先輩や米兵のご機嫌をうかがう学校の空気に反発しコザ高校に2度入学し、2度退学した。普久原さんは反骨の人でもあった。その後、密航によって朝喜のいる大阪へ渡り、音楽の修行を始めた。敗戦直後という時代性も手伝って、普久原さんが語る思い出話、人生譚もまた魅力的であった。

 五線譜を作文用紙に置き換え、文字を紡いだ本紙のエッセー連載「ぼくの目ざわり耳ざわり」(2016年~18年)は、ちょっぴりわさびを利かした沖縄文化論だった。それでいて沖縄の懐かしい風景や人々の暮らしを描き込んだ。読むたびに普久原メロディーの源泉に触れる思いがした。

 「音楽に国境はない」という言い慣らされた文句に対抗するように「音楽には国境がある」と語り続けた。沖縄音楽の独自性を追い求める基本姿勢が国境を越える普久原メロディーの普遍性を生んだ。これからも普久原さんの作品は歌い継がれ、愛聴されるに違いない。

 ウチナーンチュの肝心(ちむぐくる)を奏でてきた音楽家がこの世を去った。12月のコンサートは予定通り開催するという。もっと普久原さんの話を聞きたかった。新しい作品を聴きたかった。
(編集委員・小那覇安剛)