コロナ乗り越え開催 次大会での再会を期して 江州幸治氏(沖大・沖国大特別研究員)〈続・海を越えた絆 沖縄の国際交流〉4


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第7回世界のウチナーンチュ大会グランドフィナーレで踊る参加者ら=11月3日午後、那覇市の沖縄セルラースタジアム那覇(喜瀬守昭撮影)

 10月30日の前夜祭、パレードから始まった第7回世界のウチナーンチュ大会は11月3日の閉会式でその幕を閉じた。あっという間の5日間であった。

 今回の大会は、美ら島おきなわ文化祭の各種催し物、11月3日の国際通りでの約2000人による空手演武祭、首里城復興祭、各市町村による歓迎イベントなど多彩な行事が繰り広げられた。

 期間中は思わぬ台風接近により、10月31日の開会式は野外の球場から屋内へと規模を縮小して行われた。幸い30日のパレードは奇跡的に雨が降らず、沖縄と自らの歩みを誇らしく思う人々の流れが続いた。11月1、2両日はかなりの雨が降ったが、3日の空手演武会は夏を思わせる日差しとなった。その暑い中、長時間素足で演舞された子どもたちの熱演に、招待されたハリウッド女優のタムリン富田親子も感動して道路上の演舞に加わった。タムリン一家は閉会式でもカチャーシーを踊り続けていた。ウチナーンチュの血が騒ぎ、チムドンドンしたことであろう。

 帰国前夜タムリンさんは、私宛てのサインに家族が大変世話になり同時に素晴らしいストーリーを共に過ごすことができて感謝すると記し、イチャリバーチョーデーと書き残した。タムリン親子とのハグに言葉はいらなかった。

 母の朝子さんは今年86歳、「次回の大会にも必ず参加下さい、約束ですよ」と別れを惜しんだ。

交流支える人々
 

 多くの方々が海外からの親戚や友人たちと交流したと思う。私は11月1日の沖縄アメリカ協会の全米各地の県人歓迎会に出席したが、懐かしい海外の方々とともに、沖縄の国際交流を支えた方々が多く顔をそろえたことをうれしく思った。前回第6回大会時には、大田昌秀元知事が「ようこそはるばると沖縄に来てくれました」と涙ながらに歓迎あいさつしたことを思い出す。

 同協会はかつて金門クラブと呼ばれたガリオア・フルブライト同窓会と併設された。クラブはキャラウェイ高等弁務官の「自治は神話にすぎない」との言葉で有名だが、会自体はリベラルな団体である。

 会員の多くが琉球大学等の教員や琉球政府および沖縄県庁で首脳や幹部として活躍し、戦後の教育や復興、復帰後の振興に多大の寄与をするとともに米国と沖縄の懸け橋となった。

 11月4日は沖縄ハワイ協会のハワイ県人の歓迎会が催され、琉舞やフラ、最後にはカチャーシーで大いに盛り上がった。沖縄とハワイの太い絆は今後ますます大事にすべきと感じた。

 1日夕は、琉球大学主催のシンポジウムに参加した。アルゼンチン元県費留学生のエルネスト・ミヤシロ(宮城)ブエノスアイレス大学教授がパネラーの一人として講演した。彼は、沖縄での留学経験が人生の大きな転換となったと話し、県の留学生制度を評価するとともに県からも多くの若者を南米等へ留学させると、彼らは相互交流の大きな力となると提言した。

西銘元知事の構想
 

 ウチナーンチュ大会を始めた西銘順治元知事は、民間大使の創設時に留学生を民間大使にすることを想定した。彼らが、母国に帰り県人会に貢献することや、あるいは母国と沖縄との懸け橋になることを予測したのである。特筆されるのは、アジア各国からも留学生を招いたことである。アジア各国の優秀な学生たちは沖縄留学後、大学で教え、政府機構やビジネス界で活躍している。私は若い頃、彼らの受け入れ担当になり絆を築いた。その後も連絡を取り合い、県海外事務所や委託駐在員設置の際は大いに協力してもらった。私も自ら渡航し、彼らも個人、あるいはグループで来沖した。今、県で彼らの窓口となる部署も人もいないのは宝の持ち腐れとしか言いようがない。彼らは沖縄に寄与したいのだ。彼らの連絡先や関係書類の所在も不明では絆も切れる。

 アジア経済戦略課があるというが物流が主で、海外事務所も彼らの連絡先を把握困難ならば戦略も限られよう。留学生の活用は今後の大きな課題である。

(沖縄大学、沖縄国際大学特別研究員、早稲田大学大学院博士後期課程修了)