世界ウチナーンチュセンター、今こそ実現を 「津梁」見える形に 運動30年も資金集め難航 下嶋哲朗・ノンフィクション作家、画家


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プログラム最後の打ち上げ花火を楽しむ参加者=3日、那覇市の沖縄セルラースタジアム那覇

 世界のウチナーンチュ大会は終わった。「お帰りなさい」「イチャリバチョーデー」「ユイマール」の言葉が飛び交った。世界から帰ってきたウチナーンチュはその大歓迎ぶりにフィーバーしていた。が、祭りはにぎやかなほど、後のさびしさは深い。そのさびしさの埋め方を探ってみた。

 私は「ハワイから沖縄に贈られた550頭の豚」を発掘し、調査した(1995年)。その者としてお祭りに、山国の信州から出席した。貧しい沖縄を出て、外から貧しい沖縄の発展に寄与した子孫を迎える、その歓迎ぶりを知りたくて。……信州人は満州へ出ていった。

 私が“豚の海わたり”を発見したきっかけは、沖縄の豚はなぜ白い? こんな素朴な疑問だった。(いろいろ経過があって)調査にハワイへ飛んだ、そしておどろいた。この大変な仕事は関係者もろともに忘れ去られていたのである。そこで私は沖縄の自然神に使命を与えられた――この歴史的大事業は、いま調査し記録しないと永遠に埋もれてしまう。それでは移民の苦労に対して申し訳が立たなかろう、と。

世界ウチナーンチュセンター設置について意見を交わす登壇者=2日、那覇市泉崎の琉球新報社

経済救済の泉

 さて、世界に出ていった沖縄人は、安価な労働力としての海外出稼ぎ移民である。かれらの多くは劣悪な暮らしにあった。そのかれらの送金が劣悪な沖縄経済救済の泉であった。かれらの功績を讃(たた)え、子孫を迎え入れるべく施設があって然るべきだが、無い。北米には「全米日系人博物館」があって、私も設立にあたり資料収集に協力したが、日系人史や個人のルーツはもちろん、日系人がアメリカに寄与した功績を称(たた)える展示など、あらゆることが準備されている。しかしそこは、出て来た者たち、を称える施設である。だが沖縄は、出て行った者たち、を称える立場だ。その施設をなぜ沖縄人は作らないのか(信州にはある)。

 偶然、琉球新報社での「世界ウチナーンチュセンター」設立に関するシンポジウムを知り、出席した。その内容を私なりに要約すると。1、沖縄は移民を世界に出してきた。2、その子孫は、沖縄文化×その地の文化=独自の文化を形成。3、かれらを迎えることで沖縄の文化等が発展する。そういう施設を私はこう理解した。―――世界ウチナーンチュセンター建設は「万国津梁」の見える化である。津梁は「船から他にうつり渡るための板」の意がある。両者をつなぐ板を作る運動だと。

資金難

 ところが、シンポジウムで知った。センター設立の運動はすでに30年もなされてきている。しかし一向に進展しない。つまり資金が集まらない。こうした事業に県のバックアップは欠かせぬが、いっかな動かないようだ。首里城再建には燃え上がるウチナーンチュだが、その熱き眼差(まなざ)しはセンター設立には向けられていないようでもある。沖縄ブームに浮き足立つかの沖縄人にひとこと言いたい。不甲斐(ふがい)ない。豚の海渡りだが、当事者および資料探しにハワイをかけ巡った。ようやく探し当てた関係者はいうのだった。「あえて名前も資料も写真も残さなかった」と。その理由はなんと「沖縄に、自慢のためにしたのではないからね」。私は沖縄を愛するそのあまりの気高さに落涙した。

 沖縄はかれらの気高さに応えねばならない。次の世界のウチナーンチュ大会は5年も後。高齢者は悲しんでいるに相違ない。かれらと沖縄との「津梁」を目に見える形にしよう。「世界ウチナーンチュセンター」の建設である。控えめな世界のウチナーンチュだが、心の中では強く祈っているだろう。沖縄のウチナーンチュよ「ヒヤミカチウキリ!」―――寂しい祭りの後を埋めておくれよ、と。


 しもじま・てつろう 1941年、長野県生まれ。ノンフィクション作家、画家。著書に「ヨーンの道」「沖縄・チビチリガマの“集団自決”」「アメリカ国家反逆罪」「海からぶたがやってきた!」「平和は『退屈』ですか 元ひめゆり学徒と若者たちの五〇〇日」「非業の生者たち」など多数。