「自分探しに終わりはない」母国と祖国、揺れた思春期 北米沖縄県人会長の神谷・清志・エドワードさん ウチナーネットワークとの温かさに「居場所」 


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北米県人会長の神谷・清志・エドワードさん=3日、那覇市安里のヒューイットリゾート

 海外に住む沖縄県系人は生まれ育った母国と、両親のルーツである祖国との間で自分のアイデンティティーについて見つめ直す時期がある。11月に開かれた第7回世界のウチナーンチュ大会参加のため、米国から来県した北米県人会長の神谷・清志・エドワードさん(71)も10代のころ悩んだ一人。「自分探しに終わりはない」と話し、今も学び続けている。

 神谷さんがルーツを知ったのは10~11歳の時だった。学校の昼食に正月料理の残りを持ち込んだ。「これ天ぷらじゃないよ」。同級生が言い放った。母が天ぷらと呼んでいたものは、サーターアンダギーだった。

 「米国人なのだから、英語を話さなければならない」。太平洋戦争前の沖縄で18歳まで軍国教育を受けた父・チャールズさんは日本のスパイと見なされ、開戦後は収容所に送られた。父は3カ月後に潔白が証明され帰宅したが、再びスパイ容疑にかけられることを恐れた。日本や沖縄から持ち帰った品々を捨て去り、子どもたちには日本語を話すことを禁じた。

 エドワードさんも米国人になろうと努めた。高校時代はロックに染まり、デート相手は白人を好んだ。広島県系2世の友人とはバンドを組むほど仲良しだったが急に口をきかなくなった。他の日系人の友達もエドワードさんから離れていったが誰も理由は教えてくれなかった。10代のエドワードさんは困惑したが答えは見つからなかった。

 エドワードさんは今、当時を振り返り「自分のルーツが沖縄だと知り、友達の親は自分のことをよく思わなかったのだろう」と話す。当時の日系人社会はウチナーンチュ同士で結婚させる風習や、明治以降に日本に組み込まれた歴史から沖縄に対して良いイメージを抱いていなかった。

 友人関係で悩んでいた10代の頃、両親に誘われて初めて県人会のピクニックに参加した。最初は気乗りしなかったが、古い知人のように話しかけてくる人々の温かさや心揺さぶる三線の音色に触れ「ここなら大丈夫」と安心した。居場所を見つけたようだった。

 進学や仕事などで県人会から離れていたが、母を県人会活動に送迎するうちに15~16年前から自身も活動に加わるようになった。青春時代はアイデンティティーに悩んだが「自分探しに終わりはない。毎日少しずつ学び続けることで成長し、強くなれる」と語った。

(比嘉璃子)