琉球史に新たな地平 東南アジア史にも貴重 高良倉吉<歴代宝案研究の先駆者たち・訳注本全15冊刊行に寄せて>上 


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全15冊の刊行が完了した「歴代宝案」訳注本(県教育委員会提供)

 琉球王国の外交を支えた人材の拠点、久米村の明倫堂に秘匿されていた『歴代宝案』の存在が明らかとなり、それが沖縄県立図書館に移管されたことは、琉球史研究にとって銘記すべきできごとだった。1933(昭和8)年のことである。

 中国(明朝、清朝)を始め、朝鮮や東南アジア諸国と交流した琉球の、その歴史実態に向き合うことが可能となったからである。少数だが、『歴代宝案』(以下、『宝案』と略称)の研究に取り組む研究者が登場した。

パイオニア
 

 東京に居て、琉球史研究のパイオニアとして活動していた沖縄出身の東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん)(1882~1963年)を挙げたい。彼は『黎明(れいめい)期の海外交通史』(1941年)を発表し、中国や朝鮮、東南アジア諸国と琉球の交流状況を概論して、琉球史の新たな地平を拓(ひら)いた。

 東恩納とともに、『宝案』の重要性に注目したのが小葉田淳(こばたあつし)(1905~2001年、福井県出身)だった。植民地台湾の大学(台北帝国大学)に籍を置いていた彼は、那覇に何度も通い、その成果を『中世南島通交貿易史の研究』(1933年)として発表し、東アジアおよび東南アジアにまたがる琉球の交流状況を展望した。

 『黎明期の海外交通史』と『中世南島通交貿易史の研究』は、戦前の『宝案』研究を代表する成果となった。

 あまり知られていないと思うが、秋山謙蔵(1903~78年、広島県出身)にも触れておきたい。『日支交渉史研究』(1939年)や『東亜交渉史論』(1944年)などの著作を持つ彼は、その歴史認識の一部に、『宝案』研究の成果を据えていた。

 秋山は七高(第七高等学校、鹿児島大学の前身)の学生の頃、夏休みを利用して沖縄を訪れた時、荒廃した首里城正殿の前で、この城が輝いていた時代のことを明らかにしたい、と誓ったことを『東亜交渉史論』の序文に書いている。

 もう一人、安里延(あさとのぶ)(1913~50年)のことを忘れてはならない。名護の世冨慶に生を受けた彼は、広島文理科大学(広島大学の前身)で学んだ後、教師や教育行政の職を担いながら、『沖縄海洋発展史』(1941年)という書き下ろしの著作を、僅(わず)か28歳の若さで刊行した。『宝案』研究の成果を含みながらも、沖縄という地域の「海洋発展」の全体像を、彼が生きる現代にまで拡大して描いた通論であった。

 だが、以上に紹介した『宝案』研究のパイオニアたちの成果は、当時の時代状況に強く拘束されていた。軍事強国を目指す帝国日本は、東アジア・東南アジアにまたがる「大東亜共栄圏」の形成を目指していた。そのプロパガンダに呼応する形で、学術・文化分野も発言していた。『宝案』が伝える琉球のアジアとの交流は、「大東亜共栄圏」の先鞭(せんべん)ともいえる歴史だ、と力説したのである。特に、秋山と安里の仕事は、その典型的な例だと言える。

英訳して出版
 

 戦後、小葉田はハワイの東西文化センターに招かれ、その機会にハワイ大の松田貢と協同し画期的な仕事を行っている。『宝案』の中の朝鮮、東南アジア関係のすべての文書を抽出し、それを英訳して出版したのである(1969年刊行)。この本は、難解な漢文で記述されている『宝案』の内容を、英語を理解する人々のために提供したものであった。

 沖縄国際海洋博覧会(1975年開催)の沖縄館に関係した私は、展示物調査のため東南アジアに出張する機会があり、小葉田・松田コンビによる英訳本をタイやマレーシアなどの関係機関に贈呈した。

 英訳本に依拠した『宝案』に対する関心は、東南アジアで静かに広がっていると思う。例えば、2018年、マレーシアのケランタン州で開催された学術文化集会に招かれ、講演を行う機会があった。地元マレーシアを始めインドネシアやタイ、ベトナムなどから参集した研究者の中に、『宝案』英訳本のことについて話しかけてくる人々がいたのである。

 東南アジアには文字記録がきわめて少ない。『宝案』の中の東南アジア関係文書は、東南アジア史を検討できる貴重な記録でもある。小葉田・松田コンビの仕事は、今なお特筆すべき位置を占めているのである。

 沖縄県による『歴代宝案』刊行事業の完結に際して、この外交文書集に向き合った草創期の先学たちのことが思い出される。


 たから・くらよし 1947年伊是名村生まれ。愛知教育大卒。沖縄史料編集所専門員、浦添市立図書館長などを経て琉球大法文学部教授。現在同大名誉教授。文学博士。主な著書に『琉球の時代』『アジアのなかの琉球王国』『琉球王国の構造』などがある。