平和・文化の交流拠点を ウチナーンチュ大会のレガシー次世代へ 江州幸治氏(沖大・沖国大特別研究員)〈続・海を越えた絆 沖縄の国際交流〉6


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グランドフィナーレで踊る参加者ら=3日、那覇市の沖縄セルラースタジアム那覇(喜瀬守昭撮影)

 第7回ウチナーンチュ大会が終わり3週間が過ぎた。未曽有のコロナ禍により1年延期された大会は図らずも沖縄復帰50年の節目と重なり、ロシアのウクライナ侵攻や円安も影を落とした。

 多くの諸問題の中で開催された本大会の意義をどう考えるべきだろうか。

 私が懸念したのが、県民の大会前の気運の醸成不足と大会のレガシーをどう残すかである。大会期間は一週間足らずであり、各地でのセレモニーや歓迎会等で過密な日程である。ハワイや米本土からの来訪者は一週間前後の滞在で、彼らの帰国とともに熱気も報道も一気に冷めるのではないか。熱しやすく冷めやすいのは人の常だが、祭りやイベントに終わらせては余りにもったいない。

平和希求の継承
 

 今や大会は国内外の県民や県系人に馴染(なじ)みのものとなった。毎回の開催を心待ちにしている多くの人々がいる。海外の県系人たちにとっては次の大会への参加が大きな励みだと聞く。彼らからすれば、沖縄が自身のアイデンティティーに気付かせ、心の拠(よ)り所となっているに違いない。

 同時に、大会と海外の同胞を通じて沖縄に住むわれわれも自身のアイデンティティーに改めて気付く。そのアイデンティティーに影響を及ぼしているのは沖縄独自の歴史文化であり、各地での歓迎会での民謡や伝統舞踊、エイサーは帰郷者のみならず地元の私たちの心をも揺さぶる。

 毎回、閉会式のフィナーレは観衆の一体感を生み出し、さながら民族の祭典の様である。しかし、歴史の陰で県民が受けた戦争や差別等の苦難を思う時、大会はやはり、平和の象徴とすべきであろう。

 ましてや、今回はウクライナ侵攻の最中であり、なおさら平和を強く発信してほしかった。

 先日新聞報道されたように、ペルー県人会の若者が中心となり「慰霊の日」というドキュメントフィルムを作ったが、「平和への希求」は大会のレガシー(遺産)として次の世代へも伝えていくものであろう。

 県平和祈念資料館の「『平和への思い』発信・交流・継承事業」等を今後も拡大継続してほしい。

国際交流の行方
 

 これまでウチナーンチュ大会を中心に述べてきたが、大会は県の国際交流施策の一事業であり、同施策は「アジアの結節点としての交流」と「県系人ネットワークの構築」を大きな柱とする。

 国際交流は復帰以降の沖縄振興施策の柱として経済振興や人材育成、文化学術交流を展開してきた。

 世界という枠で日本と沖縄を相対的に考え、沖縄アイデンティティーの確立にも繋(つな)がる契機となった。

 今回、大会に併せ「WUB(世界ウチナーンチュ・ビジネス連盟)沖縄大会」や「琉大と南米との連携を考えるシンポジウム」が開催され、ハワイ沖縄協会の高山元会長らを中心に「世界ウチナーンチュセンター」構想のシンポジウムもあった。

 11月13日には東京で、沖縄を平和創造の拠点とし、アジア太平洋地域から年間500人の学生を受け入れる国際的教育・研究機関「アジア太平洋多文化共同センター」の設立構想を考えるフォーラムが開催された。この「世界ウチナーンチュセンター」と「アジア太平洋多文化共同センター」を組み合わせた複合的なセンターが設置されれば、平和・文化・学術の交流拠点となると考える。

 実は、西銘県政の昭和54年から沖縄県は「日本・東南アジア交流センター」を構想し、県独自の主体的な振興と自治体外交の核として、交流拠点の形成を目指していたが、国によりJICAの9番目の国際センターとなった。

 そのため、県は同センターの隣地を国際交流ゾーンとし、文化や情報のセンターを企画したがいまだ実現には至ってない。今大会を機に悲願である拠点形成の実現を切望する。

 アジアの結節点を自負する沖縄は、アジア等の人たちにも目を向けてほしい。彼らの沖縄への気持ちを繋ぐことも今後の私たちの務めである。

 これまで海外と沖縄の双方で多くの絆が積み重ねられてきたが、個人の絆は時代の流れの中でいつか消える。絆を繋ぐ人たちも少なくなり、アジアの民間大使の友人は開催可否を県に何度尋ねても明確な回答がない、と参加を諦めアメリカの孫に会いに行った。大会参加者の中には他所(よそ)で疎(おろそ)かな対応をされ失望して帰国した人もいる。絆を潰(つぶ)してはレガシーどころではない。

 大会は終わったが、今これらを踏まえた新たな交流が期待される。

 (沖縄大学、沖縄国際大学特別研究員、早稲田大学大学院博士後期課程修了)
 (おわり)