内発的発展 復帰前から県内に芽生え 真喜屋美樹(沖縄持続的発展研究所所長)<女性たち発・うちなー語らな>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
真喜屋美樹氏

 2015年に国連が打ち出した「持続可能な開発目標」であるSDGs。「持続可能な開発」という概念は1987年に登場するが、それ以前の75年に、国連は従来の経済成長に代わる新しい発展の方途として、「もう一つの発展」という概念を提起していた。世界中で経済優先の開発がさらに進めば、地球の未来は危機に陥るとの認識からだ。

 その後「持続可能な開発」へと展開する「もう一つの発展」は、「内発的」という言葉を用いて、未来世代が現代世代と同じように豊かに暮らすには、欧米に倣った発展から地域の独自性や多様性、生態系を重視する発展へと転換が必要なことを示していた。

 同じ頃、公害問題を抱える日本でも、国連で「内発的」な発展が検討されているとは知らず、先進国型の経済発展への対抗理論として「内発的」な発展の研究が進んでいて、偶然にも国連の報告と同時期に日本でも内発的発展論が発表された。その中心メンバーであった経済学者の宮本憲一氏は「70年代初頭に大宜味村を訪ねて内発的発展論という理論をつくることができた」と述べている。

 国際社会が「もう一つの発展」を模索していた頃、内発的発展研究の最先端にいた研究者は、沖縄の小さな自治体の試みから世界に通じる理論を構築した。宮本氏らの内発的発展論の特徴は、住民自らの創意工夫と努力によって産業を振興していること、中央政府や県の補助金に依存しないこと、などである。

 62年から20年間、大宜味村長を務めた根路銘安昌氏は、村おこしは地域の人の手で、地域の人の知恵で、地域の自然の立地条件を有効に活用することと考えていた。山が連なる国頭村、東村、大宜味村の中でも、大宜味は村土の大部分が山地と丘陵地で、その割合は北部3村で最も高い。戦前、森林は村の経済を支えたが、畑として使う耕地は傾斜地で占められ、農業を近代化しようにも機械の導入が困難であった。

 戦後はパインアップルが主要作物だったが、根路銘氏は傾斜地が多いというデメリットを逆手に取り、在来種のシークヮサー栽培に着手した。64年には「みかんの産業開発」という調査研究を始め、69年にはシークヮサーを村の振興作目とし、後に基幹作目となった。その他に、県内初の養鰻(ようまん)事業に取り組み芭蕉布工房を作った。当時、これらの事業を中央政府の補助金に依存せずに実施した。大宜味シークヮサーは現在も、県全体の生産量の半分を占め県内随一である。

 宮本氏は、住民の知恵による土地に根ざした大宜味の村づくりを見て「復帰以前から独創的な内発的発展の芽が沖縄にはあった」と述べている。小さな村の歴史から学ぶことは多いのではないだろうか。