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沖縄出身のキャリア官僚、激動の日々と古里への思い 内閣府参事官・富永健嗣さん<県人ネットワーク>


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古巣の首相官邸を背に報道室長として過ごした日々を振り返る富永健嗣さん

 政治の中枢で過ごした7月までの約2年間は、政局の混乱と未曾有の感染症との戦いに翻弄(ほんろう)される日々だった。首相官邸報道室長として、ほぼ毎日、午前と午後に開かれる官房長官会見を取り仕切った。

 「慣れるまでは苦労の連続でしたよ」

 激務をこなしたかつての職場を背に、晴れやかな笑みをこぼした。

 政府首脳と国内外のマスコミの橋渡し役を担う重責は、当初から波乱含みだった。菅義偉前首相が官房長官を務めていた当時、会見が紛糾する場面が度々あった。コロナの影響で席数がマスコミ1社につき1席に制限されるなど、会見のスタイルも「コロナ前の慣行とはがらりと変わった」。

 任期中、菅氏ら3人の官房長官の下で職務に励んだ。記者との距離感や話し方も人それぞれ。ただ、共通して感じたのは「記者の皆さんを通して国民一人一人に、政府の立場を伝えようとする姿勢」だった。

 那覇市で生まれ育ったが、地元の小学校を出るとすぐに県外の中学進学のために親元を離れた。

 「中学では、宮古出身の同級生が一人いただけ。ホームシックで入学後の1カ月は、毎日コレクトコールで沖縄の実家に電話していた」

 寂しさと引き換えに、全国から集まった異なるバックグラウンドを持つ同級生らと切磋琢磨(せっさたくま)した中高6年間で「物の見方が広がった」。東京大学に進んだ後は、キャリア官僚として国の政策決定に携わる道を選んだ。

 「東京にいても『沖縄とつながれる仕事を』と思っていた」

 早くから広い世界に飛び出しても、沖縄への思いは変わらなかった。

 入庁直後の2002年、日本復帰30年の沖縄の振興計画は3次振計から4次振計に移行。根拠法の「沖縄振興開発特別措置法」から「開発」の文字がなくなり、沖縄振興計画の方向性も「本土との格差是正」から「民間主導の自立型経済の構築」へと転換した節目に立ち合った。「ハードからソフトへという大きな転換期で、ひどい時は1週間泊まり込みで作業することもあった」。

 山中貞則氏や野中広務氏、梶山静六氏。官僚の立場から沖縄と関わりの深い保守政治家と間近に接し「沖縄に関心を寄せる政治家がこれほどいるのか」と驚いた。

 現在は、北方領土問題を所管する内閣府北方対策本部参事官として新たな分野で奮闘している。

 「東京で見えないこともあるし、沖縄にいて見えづらい部分もある。何事も先入観を持たずに向き合うことが大事だと痛感している」。そう力を込め、古里に続く霞が関の空を見上げた。

(安里洋輔)


 とみなが・けんじ 1973年6月、那覇市松尾生まれ。市立開南小、私立ラ・サール中・高校を経て東京大学文学部卒。97年に旧総理府に入庁。沖縄開発庁振興局振興総務課、内閣府公文書管理課長などを歴任し、2022年7月まで首相官邸報道室長を務めた。