北部農林高校には校歌とは別に寮歌が長く歌われてきた。「黒潮踊る うるまの島の/空をかすめて そびゆるいらか」で始まる歌詞は、2代目校長の仲田豊順の作である。寮生活を送った生徒はこの歌とともに高校生活を送った。
「僕は寮歌を歌って北農に入学し、寮歌を歌って北農を卒業したんだ」。12期で東洋大学名誉教授の比嘉佑典(82)は寮歌への思い入れを語る。
1940年、屋我地村(現名護市屋我地)生まれ。今帰仁村で育ち、56年に北部農林高へ入学した。「食いっぱぐれのない教育は農林高校が一番」が持論の父に従った。比嘉は南米移住を夢見た。
北部農林高には晴耕寮、振農寮、女子寮の3寮があった。寮生は200人余。1部屋12人体制で共に学び、暮らした。この寮で比嘉は多くのことを学んだ。「北部全域から農業を志す若者が寮生となり、寝食を共にして農業の道を学んだ。学寮の歴史と伝統は北農の発展のルーツであり、アイデンティティーであった」と振り返り、「寮は大学だった」とまで語る。
学んだことの一つは言葉であった。共同生活の中で村々や集落ごとの言葉の違いを知った。「寮で方言を交換した」と比嘉。この経験は後のアジア各地の文化研究に生きた。
57年、石川県で開催された郵便友の会全国大会に参加し、京都や東京を回ったことが契機で進学を決意し、琉球大学や東洋大学大学院で学ぶ。さらに東洋大で38年間、教員として後身の指導に当たりながら、東洋大アジア文化研究所長としてアジア各地の調査研究を牽引(けんいん)した。帰郷後は名桜大学理事長を務めた。
現在は「今帰仁村史」の編さんや世界のウチナーンチュセンターの設置活動などに携わる。学生寮で始まった学びの延長上に今日の比嘉の活動がある。
比嘉の同期で書家の仲里徹(82)も3年間の寮生活を懐かしむ。「1年間で礼儀作法や言葉遣いが身に付いた。実社会で大いに役立っている」
40年、本部町備瀬で生まれた。戦後、台湾から復員した父は出稼ぎで再び家を離れ、母は子ども6人を育てるため懸命に畑仕事に打ち込んだ。自身も姉と共に草刈りや水くみをして母を支えた。
高校進学には積極的ではなかったが、母は進学を勧めた。「少なくとも高校は出なさい。学費は何とかする」と背中を押され、北部農林高の校門をくぐる。入学式当日の感動を忘れない。「校門前の停留所に降り立つと、両サイドにキンセンカが神々しく咲き誇っていた。私たちの入学を祝っているようだった」
入学前からうわさに聞いていた通り、厳然たる寮のおきてが新入生を待っていた。先輩には絶対服従という厳しい上下関係が寮生活を支配していたが「身心の修行となり、有意義な学園生活だった」と仲里は語る。寮ではお米の食事が出たこともありがたかった。
思い出に残るのは応援団の活動。仲間正哲教諭の指導で東京農大方式のスタイルを取り入れた。入学時1メートル35センチという小さな体で仲里は大きなリーダー旗を振った。「バンカラ風の応援を改めた。グリーンの応援団旗を立て、黒い制服を着て整然と応援し、他校を圧倒した」
在学中は畜産クラブに所属した。卒業後は琉球政府の畜産試験場に勤務。復帰後は沖縄総合事務局農林水産部畜産課に移り、他県に比べて遅れていた草地畜産行政の推進に力を入れた。
77年、書家の茅原南龍との出会いがきっかけとなり書道を始め、日展など国内の書展で入選を重ねてきた。現在、茅原書藝會副会長。沖縄県書道美術振興会理事長など県内書道団体の役員を務める。雅号は光雲。
仲里はあいさつや言葉遣いなど礼儀作法全般を学んだ寮生活を心に深く刻み込む。そこは実社会を生き抜く糧を得る場でもあった。
(敬称略)
(小那覇安剛)
【沿革】
1902年4月 甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
16年3月 嘉手納に移転、県立農学校に改称
23年4月 林科を設置し、県立農林学校に改称
45年 終戦により廃校
46年1月 北部農林高等学校として名護市東江に創設
49年2月 名護市宇茂佐に移転
58年 定時制課程を新設
89年 農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
90年 林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編