辺野古、日米ガイドライン、オール沖縄…山崎拓氏が語る沖縄の政治の舞台裏


この記事を書いた人 Avatar photo 瀬底 正志郎
山崎拓自民党沖縄振興委員長(当時)に北部地域振興策の発展拡充を要請した島袋吉和名護市長ら=2006年5月

 本紙のインタビューに応じた山崎拓元自民党副総裁(86)は、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に道筋を付けたほか「防衛族」の重鎮として普天間返還が決まった1996年の日米特別行動委員会(SACO)合意にも関わった。金秀グループの呉屋守将会長との関係から、玉城デニー知事の1期目の県知事選出馬にも影響を及ぼすなど、県内の政局でも存在感を示した。さまざまな転換点を経た沖縄政治史の舞台裏を明かした。
 

 ■埋め立てに難色示した小泉首相

 「小泉氏は最初、環境問題への懸念から埋め立ては一切ダメだという姿勢だった」。山崎氏は、普天間飛行場の辺野古移設をめぐる協議の初期段階の状況をこう振り返った。2004年から小泉首相の首相補佐官を務めた山崎氏。05年には、自民党安全保障調査会の会長に就任し、政府と地元との交渉役として何度も沖縄入りした。山崎氏によると、政府内での協議は、主に小泉氏、額賀福志郎防衛庁長官、守屋武昌防衛庁事務次官(肩書きはいずれも当時)との4者間で行われた。小泉氏が、移設計画に伴う環境への影響を懸念していたのは、自身の経験があったからだという。

 山崎氏は、「彼のかつての選挙区だった神奈川県逗子市で、米軍関係の環境問題があり、住民の反対運動でかなり苦労したようだ。それもあって、サンゴ礁があり、ジュゴンが生息する辺野古の埋め立てには敏感に反応した」と明かす。だが、額賀氏ら防衛庁側から「環境への影響が少ない」とする沿岸部の一部埋め立て案が提示されたことで態度を軟化させ、最終的に「(案を)飲んだ」のだという。この経緯について小泉氏にも見解を求めたが、取材に応じなかった。

■日米ガイドライン交渉の裏側

 山崎氏は、95年から98年にかけて自民党政調会長を務めた。

 在任時の96年4月、橋本龍太郎首相がモンデール駐日大使と普天間返還で合意。半年後のSACO最終報告で、沖縄本島東海岸沖に海上基地を建設することが決まった。この時、米政府担当者との協議の場に立ったのも山崎氏だった。嘉手納基地への統合案もあったが「キャンベル国防次官補代理と主に話をした。『普天間を譲る以上は代替基地が必要だ』とかたくなだった」という。

 97年には、78年策定の「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)の見直しも行われ、日米交渉は、山崎氏とキャンベル氏が担った。
 「日米安保条約では米軍が在日米軍基地の使用範囲をフィリピン以北の『極東』としていたが、それを『アジア太平洋』に置き換えるよう強く主張した。在日米軍の活動範囲を広げたい米国の戦略に沖縄は欠かせなかったのだろう。中国の台頭も念頭にあったはずだ」
 

■金秀「オール沖縄」離脱の背景

 山崎氏は、翁長雄志前知事が糾合した超党派の枠組み「オール沖縄」の中心的存在で、金秀グループの呉屋守将会長との関係から、玉城県政の誕生にも間接的に関わった。呉屋氏の父でグループ創業者の秀信氏は山崎氏の沖縄後援会の会長を長らく務めた。2018年8月、生前の翁長氏から知事の後継指名を受けていた呉屋氏から山崎氏に相談があったという。

2021年の衆院選で、金秀グループの呉屋守将会長(左)とともに、国場幸之助氏(右)の応援に駆けつけた自民党の山崎拓元副総裁=2021年10月23日、那覇市牧志の選挙事務所

 山崎氏は「私は政治にあまり深入りしないほうがいいとアドバイスした」と振り返る。

 呉屋氏は、山崎氏の進言を受け入れ、遺言で後継2番手とされていた玉城デニー知事に「立候補を勧めた」。玉城知事が衆院議員として籍を置いていた自由党(当時)の小沢一郎代表の説得に当たったのも山崎氏だったという。「本人は乗り気だったが、小沢さんが反対した。議員の補充を確約してようやく説得できた」。その後、金秀グループは、21年9月に「オール沖縄」から離脱。折に触れて呉屋氏と言葉を交わしていた山崎氏は背景について「率直に言えば経営問題。オール沖縄に行ったために揺さぶられた部分があった。社員からも声が上がっていた」と明かした。

 辺野古移設に固執する現政権の姿勢に疑問を呈す山崎氏。基地の固定化につながりかねない現状に「米軍は今後10年、普天間が使えればいいという姿勢だ。返還が実現しなければ沖縄振興もままならない」と語気を強める。「本土で引き受ける所があれば一番よかった」とも漏らす一方で「米軍基地を受け入れる都市住民はいない。選挙のイシューになる辺野古の問題は、民主政治の限界を象徴している」と喝破した。

(安里洋輔)