【足跡と年表】沖縄戦の語り部・中山きくさん死去 「基地は戦争に直結」語り始めたきっかけ、揺るがぬ思い


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絵本「きくさんの沖縄戦」を県内の公共図書館に寄贈する作業に当たる白梅同窓会の(右から)中山きく会長、武村豊さん、宮平義子さん=2013年11月21日、那覇市のホテル山の内

 12日に亡くなった元白梅学徒隊の中山きくさんは、自身の沖縄戦の体験を基に、平和運動に積極的に参加してきた。

 1928年に佐敷村(現南城市)に生まれ、41年に県立第二高等女学校に進学する。45年の沖縄戦下では、学徒隊として八重瀬岳の第一野戦病院に配属され、補助看護要員として負傷兵の看護に当たった。

 戦後しばらくは沖縄戦について語ることができなかったが、夫の転勤で住んだ広島県や長崎県で戦争体験を伝える人々の姿を見て、語り継ぐ覚悟が生まれたという。

 戦後50年の95年には、元白梅学徒隊の戦争体験記をつづった「平和への道しるべ」の発刊に尽力した。これを機に、語り部として活動を始めた。「二度と同じことが繰り返されないよう語り継ぐために生かされている」(中山さん)との思いで、県内外の児童や生徒、修学旅行生などに熱心に戦争体験を伝えてきた。

 2007年、文部科学省の高校歴史教科書検定で「集団自決」(強制集団死)から軍関与の記述が修正・削除された際には「過去の教訓に学び同じ轍(てつ)を踏まない」と憤り、教科書検定の意見撤回を求める県民大会の共同代表として活動した。

 15年に「戦後70年 止めよう辺野古新基地建設!県民大会」の共同代表を務めていた際の本紙インタビューでは「戦争を体験したからこそ伝えられることがある。それは基地は戦争に直結するということだ。政府は沖縄に基地があることが抑止力につながると考えているが逆だ。ほかの国を刺激するだけだ」と語っていた。

(中村優希)