問い続けた国家のうそ 30年かけ認めさせた密約の存在 西山太吉さん死去


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1972年4月、外務省機密漏えい事件で逮捕。釈放され、毎日新聞東京本社で記者会見する西山太吉記者(右)

 「私は裁かれたが、うそをついた国は裁かれないままだ」。24日に91歳で死去した元毎日新聞記者の西山太吉さんは、1972年の沖縄返還を巡る日米の密約を最後まで追及し続けた。特ダネを連発する敏腕記者だったが、外務省の機密漏えい事件をきっかけにペンを奪われた。30年余りの時を経て、法廷の場で密約の存在を認めさせた。

 毎日新聞に入社し、政治部で外務省や自民党を担当した。事件の端緒は72年3月、社会党(当時)の横路孝弘議員の国会質問だった。

 機密公電のコピーを手に、沖縄の米軍用地の原状回復補償費を日本が肩代わりしていたとの密約を追及。コピーは西山さんが外務省の女性事務官から入手し、横路議員に託したものだった。

 報道すれば取材源を危険にさらすと考えた「次善の次善の策」(西山さん)だったが、事務官は自ら上司に告白。2人は国家公務員法違反容疑で逮捕された。

 「言論の自由」や「知る権利」を訴えるメディア。密約追及の世論が高まるかに見えたが、起訴を境に潮目は変わる。起訴状に記された「ひそかに情を通じて」の文言が外交問題を男女関係に擦り替え、毎日新聞に非難の電話が殺到。西山さんは当時の立場を「孤立無援、四面楚歌(そか)、密閉された社会」と表現した。

 74年に一審で無罪判決が出たが、すぐに退社し北九州市に。「こんな不条理が許されるのか」。飲み歩き、ボートレースに通う日が続いたが、親族の会社で定年まで働いた。

 2000~02年に密約の存在を示す米公文書が明らかになったが、政府は否定し続けた。西山さんはメディアの取材に応じるようになり、05年には国に損害賠償を求めて提訴。敗訴が確定しても追及の手を緩めず09年に支援者らと密約文書の開示を求めて提訴した。

 訴訟には沖縄返還交渉の責任者だった吉野文六・元外務省アメリカ局長が証人として出廷し、密約の存在を証言。37年ぶりに対面した西山さんは休廷中に笑顔で握手を交わした。

 東京地裁は10年4月、密約の存在を認定し原告全面勝訴の判決を言い渡したが、東京高裁で逆転敗訴し、14年に最高裁で確定した。この間、密約をテーマにした本を著す傍ら、日米の安全保障問題に関する講演で全国を回った。

 吉野元局長の証人尋問を間近に控えた09年、心境をこう語った。「私は今、何十年の空白期間をカバーしておつりがくるほどの大きな仕事をしている、一度死んだジャーナリストが晩年に蘇生した。これは歴史の裁断だ」

(共同通信)