沖縄戦で県立第一中学校(県立一中)の通信隊として14歳で動員され、戦後体験を語り継いできた宮平盛彦(みやひら・せいげん)さんが14日午後6時56分、老衰のため那覇市の病院で死去した。92歳。西原町我謝出身。告別式は17日午後1時30分から2時、那覇市曙1の20の39、那覇葬祭会館本館で。喪主は妻春子(はるこ)さん。
宮平さんは1945年3月下旬、第32軍の電信第36連隊の中隊に配属され、首里崎山の分隊に派遣された。砲弾が飛び交う中、発電機の操作や伝令、飯上げ(食事運び)などを担わされた。
45年5月、第32軍司令部の南部撤退で摩文仁へ向かい、兵隊や住民が逃げ惑い、攻撃にさらされる状況を目の当たりにした。
45年11月下旬に南風原の壕で米軍に捕まった。その直前、投降を呼びかけに来た日本兵2人が、敗戦を信じない兵士によって射殺されたのを目撃し、戦後自責の念に苦しんだ。94年に北海道新聞で呼びかけ、遺族と面談し謝罪した。
(中村万里子)