沖縄県系人の歩みを伝え続け43年 ハワイ邦字紙全号を県立図書館に寄贈 創刊者の仲嶺和男さん


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県系一世のことを多く取り上げた邦字紙「ハワイパシフィックプレス」

 1977年11月、ハワイで創刊された月2回発刊の邦字紙「ハワイパシフィックプレス」(HPP)の創刊者で、編集発行人を務めた仲嶺和男さん(83)=沖縄県那覇市=がこのほど、県立図書館に77年の創刊号から2020年12月の終刊号までを寄贈した。県系や日系社会の貴重な歴史の記録となっている。

 仲嶺さんは国頭村出身。琉球新報記者として5年間勤め、1970年にハワイへ移住した。日刊紙「ハワイ・タイムス」を経て77年にHPPを立ち上げた。「沖縄とハワイの架け橋」「今の歴史を記録する」をモットーに「初期の10年間は特に県系人の活動の記録に重点を置いた」と振り返る。

 「一世の『顔』」や「一世の日々と周辺」などのコーナーでは、1924年以前に移住した一世を中心に紹介した。

 「『新聞に掲載されるなんて夢のようだ、いつ死んでもいい』と言ってくれた人もいた」と懐かしむ。

仲嶺和男さん

 一世の「コウイダシキ、カミダシキ、ミイダシキ」という言葉を引用し、「県系の人が店を出したら買って助けてあげる、レストランができれば食べて助ける、芸能を見て助ける、“ウチナーの心”だ。これが県人会の成功につながったのだと思う」と推し量る。

 ハワイ沖縄センターの建設を巡る金銭問題が起きた際には「書かないでほしい」と言われながらも連載記事を執筆。その報道姿勢は信頼を得ることにもつながった。

 バブル期以降は県外の進出企業が増え、広告収入や購読者も増加した。しかしコロナ禍で広告収入が減り、自身も故郷で「悠々自適の生活がしたい」と終刊を決めた。

 ペンを置いたが、“記者魂”は消えていない。「一世や二世が戦争に翻弄(ほんろう)される中で、どのようなアイデンティティーを持っていたか、ウチナーンチュとヤマトンチュの考え方の違いなど、調べてみたいことはたくさんある」。仲嶺さんの目が光った。

(中村万里子)