1997年に神戸で起きた連続児童殺傷事件に関する一切の事件記録が、裁判所によってすべて廃棄されていることが昨22年9月に、地元・神戸新聞記者の調べで判明した。ほかの少年事件も芋づる式に廃棄が明らかになるなかで、そもそも最高裁が定めた保存の内部ルールが有名無実化している状況や、さらに言えば当該ルール自体の制度上の瑕疵(かし)も指摘されるなか、最高裁は昨年中に有識者委員会での検討を表明、現在取りまとめ作業が進んでいる。
当初予定の4月から若干遅れたものの、5月2日に行われた第13回会合時点では、5月中には最高裁事務総長名義の調査報告書公表をめざすと伝えられている。そこでここでは、改めて司法記録の保存の現状と改善の方向性についてまとめておきたい。
厚い秘密の壁
検討を進めているのは最高裁の「事件記録の保存・廃棄の在り方に関する有識者委員会」で、座長・梶木壽元広島高検検事長と、神田安積弁護士、高橋滋行政法学者の3人で構成される。11月の第1回以降、関係者のヒアリングや地方裁判所における保存実態の検証なども実施した。
ここでいう「事件記録」は少年事件の場合、少年の供述調書や精神鑑定書など、捜査機関や家裁調査官などが作成した様々な記録をすべて含むことになる。ちょうどいま話題になっている再審裁判などでも、通常の刑事事件の場合、捜査資料(しかも無罪の決定的な証拠になりうるものも含め)、警察や検察が有罪証明に不利なものを意図的に隠蔽(いんぺい)し、法廷に提出しない状況が明らかになっているが(残念ながらそれ自体は「違法」ではない)、少年事件の場合はすべて家裁に送付されるといわれており、事件に関する全記録といってもよかろう。
規程では、保存期間は最長で加害者の少年が26歳になるまでとし、その後、廃棄することとしている。ただし最高裁は、少年事件の記録のうち社会の注目を集めた事件、少年非行の調査研究で重要な参考資料になる事件など史料的価値が高いものなどは、保存期間満了後も廃棄せず、各地の裁判所で「特別保存」に指定し、永久保存するよう内規で義務付けている。しかし冒頭の連続児童殺傷事件の記録廃棄が判明したことを受け、神戸家裁職員らの聞き取り調査を開始するなど、全国で重大少年事件や民事裁判の記録計約100件について経緯を調べるに至ったわけだ。
しかし問題は、こと少年事件記録の「杜撰(ずさん)な」保存状況にあるのではない。そもそも裁判所は、裁判記録の保存・公開に極めて後ろ向きで、たとえば1980年代以降の行政文書の保存・公開制度の整備が進むなかでも、ほぼ一貫して背を向けてきた存在だ。筆者も当事者としてかかわった金丸信の訴訟記録の開示請求でも、わざわざ87年に公開原則を定めた刑事確定訴訟記録法が、「非公開」のための防波堤の役割を果たしていた。検察と裁判所が一体となって、訴訟記録は国民共有の財産ではなく、もっぱら自分たちのものであるとの姿勢を示していたわけだ。
歴史的資料
そうしたなかで92年には「事件記録等保存規程の運用について」の事務総長通達が発出され、2020年にかけて刑事参考記録の在り方が見直されたのだが、これらは前進ではなく、結果論からすれば批判をかわすためのポーズに過ぎず、しかも裏では変わりなく廃棄を続けていたということがいえよう。最高裁が定める開示手続きである「司法行政文書の管理の実施等について」も、裁判員裁判開始時に手続き文書等の開示を各地裁に求めた経験から、明らかに行政文書ガイドラインに悖(もと)っていると思われるし、現行の行政文書水準に達していない。
実際、日本では他国と比較しても珍しい「判決文ですら」非公開の国で、わずかに裁判所が自らの判断で公開しても差し障りないとしたもののみ、一部を黒塗りにしたうえでウェブ上等で公開している。ただしこれらが、司法行政上の「サービス」にすぎないことは明白だ。その結果、検察や裁判所が要らないと思ったものや、都合の悪いもの(たとえば無罪判決)などは、捨てられるということになる。
だからこそまず、事件記録は加害者のためのものでもなければ被害者でもなく、裁判所が判決や処分を決定するだけのものでもないことを確認する必要がある。それゆえ今般の最高裁の検討会議においても、被害者など当事者の利益が重視されているかにみえることは懸念点でもある。裁判記録の歴史的資料としての価値が、相対的に薄められる可能性を否定できないからだ。
公文書館移管を
裁判所の最大の「言い訳」であった保存スペースの課題はデジタル時代において、一気に解決されたとえるだろう。「全件永久保存」は物理的に十分可能だからだ。同時に、事件記録の保管主体を裁判所から移し、公開・非公開の判断権者を検察から切り離すことも必須だろう。行政文書同様に、一定年限を経過したものを公文書館に移管し、「歴史文書」として扱うことも現実的な運用方法だ。
これまで裁判所は、一つひとつの事件の重要性を確認しないまま、事務的に廃棄をしてしまっていたと思われる。年間200件を超える裁判を1人で担当する個々の裁判官にとって、個別の事件に思いを持つことは不可能であろうし、むしろ個人にそれを求めるのではなく、組織としての裁判所が事件記録の持つ社会的意義を再認識する必要がある。その具体的な仕組みとして、専門職アーキビストを裁判所内に配置することも必要な施策である。
一般国民の常識と司法の常識の乖離(かいり)を埋めるのが司法改革の大きな柱で、09年には裁判員裁判も始まった。その法廷の記録もまた、社会が共有することで、将来に生かすことができるはずの貴重な公文書であり公的記録だ。きちんと記録を保存し、後世に引き継ぐということこそが、過去から現在・未来へと紡がれていく「歴史」への責任を果たすことになる。21世紀に相応しい「開かれた司法」を、最高裁自らの手で切り拓くことが期待されている。
(山田健太、専修大学教授・言論法)
本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。