教師と児童が戦争ごっこ 池原盛憲さん(3)山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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古堅国民学校の跡地。1944年、校舎は日本軍が徴用する=読谷村楚辺

 読谷村の古堅国民学校で学んでいた池原盛憲さん(88)=那覇市=は1944年、3年生に進級します。担任は「久場」という名の若い教師でした。記憶に残る授業があります。

 《久場先生の授業は説教調で、突然「君たちは何のために生まれたのか」と質問し、「分かるものは言ってみよ」と促した。》

 児童の一人は「天皇陛下のためです」と答えると、先生はうなずきました。

 44年になると日本軍の駐屯も増え、古堅国民学校の校舎を徴用します。池原さんがいた学級「イ組」は大湾集落に移動します。

 《いつしか日本軍はなだれを打つように押し寄せ、宿舎として校舎を占領した。校舎を奪われた僕たちは一時、大湾の村屋(公民館)に机などを運び込んだ。授業を再開したのに、日本皇軍が往来して落ち着かなかった。》

 「イ組」はさらに山手に移動します。授業どころではなくなりました。

 《授業を放棄して山学校をする羽目になった。そうこうするうちに山ザールーになってイ組を戦う人間にするため、久場先生は棒切れ、木の枝を鉄砲や刀がわりにして二班に分かれて戦争ごっこをした。》

 池原さんは戦争ごっこに「興味はなかった」といいます。