「島は今も“防波堤”」 瀬長島、戦前から「国防」に翻弄 豊見城・上原芳雄さん <重なる戦前・“国防”と住民>3


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自衛隊の増強について「非常に複雑で難しい」と話す上原芳雄さん=7日、豊見城市

 空を切り裂くような爆音が響く沖縄県豊見城市瀬長島。観光施設の目の前にある那覇空港の滑走路から、次々と航空自衛隊の戦闘機が飛び立っていく。戦前、対米の“防波堤”と歌われた島は今、対中国などの緊急発進の最前線に位置している。瀬長島で生まれ育った上原芳雄さん(84)=豊見城市=は日本軍配備と自衛隊増強を重ね「戦争準備に変わりない。島は今も“防波堤”だ」と複雑な思いを抱く。

 1944年4月、海軍は沖縄方面根拠地隊を編成。小禄飛行場(現在の那覇空港)を守るため、約1万人を配備した。瀬長島にも高射砲4門と海に向け大砲2門が設置され、海軍陸戦部隊などの兵士が駐屯した。島は軍民混在の状態となった。

 「良好な関係だったそうですよ」。7歳上の姉の和子さん(91)=当時12歳=ら地元の女の子たちは、夕方に日本兵らに呼ばれ、お遊戯を披露してお菓子をもらった。九州出身の海軍兵曹長は“南を守る防波堤 我らのすみか瀬長島”と歌う「瀬長島小唄」を作った。しかし、のどかな生活は続かなかった。

 44年10月、南西諸島は10・10空襲の不意打ちに遭う。島の高射砲も応戦した。この空襲で上原さんの家族は不幸に見舞われる。漁師で軍に徴用されていた父親が石垣島から船で戻る途中、久米島沖で10・10空襲の攻撃を受け亡くなった。

 空襲後、日本軍は島を立ち退くよう住民に命じた。約150人の住民は、45年3月までにちりぢりになった。島の集落は消えた。

 6月4日、米軍は小禄飛行場北側の海岸に上陸。上原さんの母親は乳飲み子など9人の子どもを連れ、豊見城の壕から南部へと逃げた。近くに艦砲弾が落ちることもあったものの、一度も壕に入ることもできず、海岸べりを逃げ続けた。幼い記憶には、黒い膨らんだ遺体が散らばる光景が焼き付いている。

 戦後、瀬長島は米軍に接収され77年に返還されたが、住民は島に戻れなかった。上原さんは立ち退きに伴う補償もなかった先人の苦労をおもんぱかる。「瀬長の人々は戦争の苦しみだけでなく、戦後も言い尽くせない苦しみ、悲しみを引きずってきた。戦争は無残なもの。子や孫の時代に起こしてはいけない」

 全国の世論が防衛力強化を支持する一方で、沖縄の立場の弱さに苦悩を深める。「残念ながら、沖縄の心は中央政府に届かない。戦争は絶対反対。でもそれだけで止められない」

 戦前から“国防”に翻弄(ほんろう)され続ける状況にやり切れない思いを募らせる。

(中村万里子)