戦前の首里城で“女子バスケ” 正殿前にリング2台の写真<W杯沖縄開催 バスケ王国の系譜>1の続き


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

“バスケ王国”沖縄、118年前の起源とは 競技人口比率「全国一」の熱気 から続く

 

1905年10月14日に高等女学校生徒が初めてバスケットボールをしたことが書かれた琉球新報の記事

 沖縄県内でバスケットボールの試合が初めて行われたことを示す記事が、1905年10月19日付の琉球新報に掲載されている。「連合運動会雑記」の見出しで、10月14日に県内の学校の生徒が参加し、70種目もの競技が行われ、その中の一つとして紹介された。運動会の会場には「総数1万に下らさる」観客が訪れたという。

 記事には「今回始めて執行せしものに高等女學校生徒のバスケットボール」とある。女学校の生徒は当時、どこでバスケをしていたのか。戦前の県内バスケ史に詳しい県立芸大の張本文昭教授は断定はできないと前置きした上で、「最初にバスケが行われていたのは首里城だった可能性が高い」と指摘する。

教員養成校か

 張本教授によると、1905年当時、沖縄の高等女学校は(1)女師講習会(後の県立第二高等女学校)(2)首里区立女子工芸学校(後の県立首里高等女学校)(3)女子講習科(後の師範学校女子部)(4)県立高等女学校(後の県立第一高等女学校)―の4校があった。

張本文昭教授

 このうち、女師講習会と首里区立女子工芸学校は手芸などを専門にしており、女子講習科と県立高等女学校は教員の養成校だった。張本教授は「体育の授業があり、バスケを行っていたのは教員養成校だったのではないか」と推測する。当時、この2校は校舎が焼失したため、首里城に校舎を構えていたのだ。

 戦前、首里城前の広場には各地から生徒らが集まり、バスケなどをしていたことを示す複数の戦前の写真が残っている。首里のまちに長年住み、2019年10月の首里城焼失も現場で見ていた張本教授。「首里城にまつわる見えない歴史や文化を掘り起こすことも、首里城復興につながるのではないか」と語った。

改修工事のために訪れていた技師の阪谷良之進が1931年に撮影した首里城正殿の写真。広場の左右にバスケットボールリングが2台確認できる(「戦前の沖縄・奄美写真帳」沖縄県立図書館所蔵CCBY4.0)

遊戯バスケ

 バスケの源流は、創始者のJ・ネイスミスが1891年に考案した競技性の高いものだった。しかし当初、国内で行われていたのは玉入れのような遊戯としてのバスケだった。日本で初めてバスケが行われたのは1894年、教育者の成瀬仁蔵が女学校生徒に指導した「日本式バスケットボール」だった。「教科適用小学校遊戯」(1909年)などには、コートが四つに分かれるなど現在とかけ離れたバスケが示される。リングやボードはなく、竹竿(たけざお)に籠を取り付け、玉入れのように競った。玉は毎回取り出した。

現代とルールが異なる、大正時代に行われたバスケットボール(参照「実験ボール遊戯三十種」上平鹿之助、1910年)

 その後、本土では1908年以降に現代につながる競技バスケが普及するが、沖縄は遊戯バスケのままだった。1923年に県立高等女学校を卒業した春成キミノが、「姫百合のかおり」と題される冊子に思い出をつづっている。東京の学校で体育の授業を受けた際、先生からバスケをやったことがある人がいるか尋ねられ、「あんなものを知らない人もあるまいに」と手を挙げた。だが東京のバスケは想像とは違っていた。

 「眞上(まうえ)にぶら下がったリングの底のない奇妙な網が風に揺れるのを見てゐ(い)ました」と不思議そうなまなざしを向け、「ガード、ホワード、センター聞き慣れない用語」を初めて知った。春成は赤面し、顔が上げられなかった。沖縄のバスケは「二間ばかりの竿の先に大きな目籠(めかご)を括(くく)りつけて澤山(たくさん)いれたが勝ちのあの底の有る玉入れだった」と振り返っている。

 (敬称略)
 (古川峻)