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「ヌーガ、イャーガ、生きトーガ(なぜあなたが生きているのか)」―。突然聞こえてきた大声の先をたどると、庭先で母・ミトさんが小柄な男と向き合っていた。男につかみかかろうとする母、必死で止める周りの大人たち。母は構わず、方言で「お前も死ななかったのか」と続けた。漁師の父が釣った魚を籠に乗せて集落を売り歩く魚商で、いつも明るかった母。その母がぶつけた強烈な怒りに衝撃を受けた。
■自慢の息子は山中のゲリラ戦へ
久高栄一さん(75)=金武町=は、本部町崎本部の実家で幼少期に経験した出来事を今も鮮明に覚えている。この日、実家を訪ねていたのは、陸軍中野学校出身の村上治夫元隊長。沖縄戦当時、本島北部地域で少年らで組織した第一護郷隊(第3遊撃隊)の隊長を務めた人物だった。1956年3月、戦後初めて沖縄の地を踏み、約2カ月間、元隊員の遺族を訪ね歩いた。
久高家の長男・良夫さんは44年10月、15歳で第3遊撃隊に入隊した。集落で知られた「でぃきやー(優秀な人)」で、スポーツ万能、成績も優秀。だが、自慢の息子は自宅に戻ることはなかった。
良夫さんの行方が親族に知らされたのは、58年6月のことだった。厚生省援護局長の報告で、45年5月27日に自宅近くの真部山で戦死したとされ、戸籍から除籍された。ユタ(民間巫者)嫌いだった母は、ユタを頼り「靴がないと言っている」と伝えられると山に向かい、靴をあぶって遺骨が見つかるよう願った。しかし、戦後78年が経過した今も、良夫さんの遺骨は見つかっていない。
村上元隊長は毎年のように慰霊祭に参加し、「少年護郷隊之碑」の建立に奔走した。生き残った元隊員らの中には親交を深める人もいた。しかし、息子を失った遺族は、ゲリラ戦のため10代の少年を管理下に置いた元隊長に複雑な思いを抱き続けた。
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■陸軍中野学校歌と重なる「謹書」
村上元隊長は1956年に戦後初来県したことを皮切りに、何度も沖縄を訪れた。「少年護郷隊之碑」の建立に尽力したほか、2006年に亡くなるまでの間、6月23日の慰霊祭にも足しげく通った。周りには生き残った隊員らがいつも隊長を囲んでいた。幼い頃から、隊員だった兄・良夫さんを弔うために慰霊祭へ参加していた久高さんはその姿に強烈な違和感を抱いてきた。
少年護郷隊之の碑には、村上元隊長の「謹書」として、一文が刻まれている。「赤き心で断じてなせば 骨も砕けよ 肉また散れよ 君に捧げて ほほえむ男児」。護郷隊歌の一節で、慰霊祭で毎年歌われてきたものだ。村上元隊長らが教育された、陸軍中野学校歌「三三杜絶(さんさんわかれ)の歌」の一番の歌詞とも重なる。
生き残った隊員らは村上元隊長が「部下思い」で「命を無駄にするなと語っていた」などと、証言し、村上元隊長の訪問を毎年歓迎した。だが、慰霊祭に参加する遺族らは、少年らを犠牲にした不合理な戦闘を是認する歌詞の内容や、村上元隊長の来訪に、複雑な思いも抱いてきた。
■遺族との溝、兄の最期に一度も答えず
慰霊祭の席で、久高さんは兄の最期について、村上元隊長に何度も尋ねたが押し黙ったまま、答えることは一度もなかったという。「戦闘への号令を掛け、多くの犠牲を出した張本人でもある。肉親を失った遺族への寄り添う言葉や『行方を調べてみよう』という、ただ一言だけがほしかった」と回想する。
第一護郷隊の隊員として犠牲となった少年らの遺族には、いまだ口を開けない人たちも多い。生き残った隊員らが証言してきた、村上元隊長の「いい人」像と、護郷隊の遺族が抱える葛藤や深い悲しみとの間には、大きな隔絶がある。
戦後生まれの久高さんは、会うことができなかった兄・良夫さんの足跡を今も追い続ける。「ヤッチー ヤーカイ(兄貴 家へ帰ろう)」との詩を作り、その一節にこうしたためた。
「雨風(あみかじ)に 打(うた)ってぃ 白骨(しらくち)ゆ なてぃん 捜(とぅめ)てぃ 帰(けえ)すしどぅ 国ぬ責務(ちとぅみ)やさみ」(雨風に打たれて、白骨になっても、捜し出して帰すことは国の責務ではないか)
(池田哲平)
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【ニュース用語】護郷隊
徴兵年齢に達していない10代の少年を集めて結成された遊撃(ゲリラ)部隊の秘匿名。2部隊が結成され、スパイ養成機関として知られる陸軍中野学校出身の村上治夫中尉が隊長に就いた。第1、第2合わせて千人余が集められ、地元を知る少年らで地の利を生かす狙いがあったが、全く知らない土地に配置された少年も多く、約160人が亡くなった。「解散」後も出身地で情報収集することが期待され、完全に解放されたわけではなかったとされる。