ウクライナ、南西シフト…自身の体験重ね 「二度と石畳に軍靴響かせない」 古波蔵保隆さん(当時5歳) 子や孫へ、体験をつづる


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戦前の金城町の様子や沖縄戦の体験について語る古波蔵保隆さん=22日、那覇市首里金城町の自宅

 那覇市首里金城町に住む古波蔵保隆さん(83)は自身の記憶に残る、戦前の金城町の様子や戦争体験などをA4用紙5ページの文章にまとめた。ロシアによるウクライナ侵攻の報道で逃げ惑う少年を見て、沖縄戦当時5歳だった自分自身の戦争体験を思い起こし、体験記を書き始めた。のどかな城下町だった金城町の様子や戦争が始まっていく様子など「子や孫の世代に書き残したかった」と語り、「軍靴の響きを再び石畳道に響かせてはならない」とつづった。

 戦前の金城町は、弁ヶ嶽を源流とする金(かな)城(ぐしく)川(がーら)が流れ、田園風景が広がっていたという。大道(うふみちぃ)と呼ばれる石畳の坂道が格好の遊び場で、古波蔵さんら子どもたちは、ろうやふかしイモの皮を塗って滑りやすくした板にまたがって坂を滑り降りる遊びを楽しんでいた。

 1944年の10・10空襲を機に、警戒警報のたびに近くのガマに避難する日々が続いた。戦況悪化で叔父と島尻方面へ避難することになったが、道中ではぐれてしまった。照明弾や艦砲射撃の中を逃げ惑った後、祖父と再会でき、家族とともに逃げ延びることができたという。

 戦後は収容所を経て金城町に戻り、小学校教員になった。教員時代は「思いやりの心が大事。自分の個性を大事にすると同時に、相手の個性や立場を尊重すること。それが平和につながる」との思いを子どもたちに伝え続けた。

 台湾有事や南西諸島の自衛隊配備、避難シェルターの建設が取りざたされる現状を憂い「もう二度と国の大きな歯車に巻き込まれてはいけない」と訴えた。

(座波幸代)