「足りなかった部分が満たされた」 ルーツたどりハワイから読谷村牧原へ 移民した沢岻家子孫ら、公民館で交流


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澤岻家や牧原についての話に真剣に耳を傾けるハワイから来た澤岻家の子孫ら=6日、読谷村の牧原公民館

 【読谷】ハワイ沖縄県系人の澤岻家の子孫と関係者計16人が6日、ルーツをたどって読谷村の牧原公民館を訪れた。澤岻家を知る牧原出身者らと交流し「家族や沖縄のことで足りなかった部分が満たされたようだ」と喜んだ。

 澤岻家の先祖・澤岻三良さんが1907年にハワイへ移住。長男の蒲戸さんの子孫らが今回訪問した。沖縄に住んでいた三男・松嶺さんの子どもの安光さんとチヨさんを知る町田宗益さん(92)、豊見山キヨ子さん(93)、嵩元盛順さん(85)、國吉とみ子さん(90)、與古田松吉自治会長が交流した。

 母がチヨさんと同級生だったという與古田自治会長は「澤岻家は瓦(かわら)屋でとても裕福だった」と紹介した。嵩元さんは安光さんのことを「農林学校の生徒だった。(戦時中に)焼夷(しょうい)弾でやけどを負い、水に飛び込んで亡くなったという話もある」と伝えた。

 ハワイ県系人の澤岻美代子さん(96)は、戦前の交流を紹介。三良さんの次男の息子・安次郎さんが真珠湾攻撃の直前に沖縄に来たが、帰りの直行便がなくなり上海経由で帰って来たなどと話した。読谷村史編集室の中田耕平さんが編集室に保管されている当時の写真を用意しており、真珠湾攻撃の2カ月前に沖縄へ来ていたことが分かった。

 澤岻家のあった旧牧原地域の一部は現在の米軍嘉手納弾薬庫地区内に当たる。昔は馬小屋や松林、大きな池などがあり、豊見山さんは「きれいな村落だった。見せてあげたい」と話した。國吉さんは「水がきれいでマツタケがとれた。何も残っていないのがさみしい」と思いをはせた。

 息子と参加した県系3世のユキ・タクシさん(64)は「子どもたちにも自分たちがどこから来たのか分かってほしい。良い機会になった」と感謝を伝えた。交流の後は戦没者氏名が刻銘された「牧原の碑」に黙とうをささげた。

(金盛文香)