<かっちゃんを語り尽くす(上)> 沖縄ロック誕生の瞬間 関係5氏が座談会 きょうピースフル開催


この記事を書いた人 Avatar photo 仲井間 郁江
2014年のピースフルラブロックフェスティバルのステージ上のかっちゃん=沖縄市野外ステージ

【沖縄】夏の沖縄ロックフェスの定番「ピースフルラブ・ロックフェスティバル」が8日、沖縄市のコザ・ミュージックタウン音楽広場で開催される。同フェスに最多出演し、沖縄ロックの「レジェンド」と語り継がれた「ヒゲのかっちゃん」こと川満勝弘さんが4月に死去した。強烈な個性とパフォーマンスで観客を魅了した「かっちゃん」。琉球新報はこのほど川満さんの功績や生涯を振り返る座談会「かっちゃんを語り尽くす会」を沖縄市胡屋の「コザメトロ」で開いた。ピースフル開催に合わせその内容を(上)(中)(下)で一挙大公開する。

 座談会の登壇者は、県ロック協会事務局長の喜屋武幸雄さん、県ロック協会元会長で紫ドラムの宮永英一さん(愛称・チビ)、ピースフルラブ・ロックフェスティバル総合プロデューサで元ミュージックタウン音市場館長の徳山義広さん、 元コンディショングリーンギターの神鬼(シンキ)さん、シアタードーナツ・オキナワ代表でちゃんぷる~沖縄市大使の宮島真一さんの5人。司会は島袋良太琉球新報中部報道グループ長。

川満勝弘さんの思い出を語る(右から)宮永英一さん、神鬼さん、喜屋武幸雄さん、宮島真一さん、徳山義広さん=5月22日、沖縄市胡屋のコザメトロ(ジャン松元撮影)
喜屋武幸雄さん

―かっちゃんと沖縄ロック誕生の歴史は。
喜屋武 かっちゃんと最初に出会ったのはコザのセンター通り(現沖縄市中央パークアベニュー)のそば。コザ中学校もないころ。「キャピトル館」って映画館のそばで、子どもで集まって遊んでいたら、ぽつんと立っている男の子がいた。

「お前誰だ」って言ったけど、むぬあびらんばーよ(しゃべらない)。うちなーぐち分からなくて。でも少しずつ話すようになった。そしたら宮古島から1人で来たと。8歳か9歳か。宮古島から母親を追ってコザに来たけど、部屋にはかっちゃんが住む場所はなかった。だから当時から俺と一緒に住むようになった。多分売春宿だった4畳半の部屋に、米軍の野戦用の鉄パイプのベッドがあって。2人で寝た。

 その時期に、Aサイン(米軍相手の店)のジュークボックスから流れる英語の音楽がすり込まれていった。一緒にでたらめな英語歌いながら歩いていた。

 年齢は僕が一つ上だけど、その後、殴り合いのけんかもするようになった。彼に自我が芽生えたというか。世の中に対する恨みつらみ、例えば彼は自分の父親が分からないとか、そういうことだろうな。

 高校を出て、俺はヤマトで工場務めだったが、かっちゃんが訪ねてきた。「オユキ、沖縄に帰ってバンドやろう」と。そしてかっちゃんと外間勉と俺で始めたのが、沖縄で最初のロックバンド「ウィスパーズ」だった。ちょうど「琉球新報ホールでエレキ大会やります」ってオファーがあって。それでトリを務めて、沖縄で初めてのロックコンサートをした。

宮永 当時は「エレキの夕べ」とか言ってね。公民館でやっていたね。
 

宮永英一さん

―宮永さんはかっちゃんとの長年の関わりだけでなく、人気を二分したバンド「紫」のメンバーでもある。コンディショングリーンやかっちゃんはどう映っていたのか。

宮永 中学のときにどうやってたどり着いたかは分からないけど、波之上でウィスパーズを見た。最初に見たプロのバンドだった。皆スーツ着けてた。あの時はかっちゃん「ステージは聖地だから、みだらな格好したらだめ」って徹底していた。

 なのに一気に変わったわけよ。ヒゲも伸ばしてどんどん。ステージングも変わってきた。その頃からバンドが「コンディショングリーン」になった。メンバーも替わっていったけど、神鬼やエディが入った時が一番盛り上がっていった。

コンディショングリーン時代に「人間タワー」の演奏で米兵らを興奮させる川満勝弘さん(中段)らメンバー(喜屋武幸雄さん提供)

 かっちゃんは客席にシンバル投げたり、鶏の首切ったり、ヘビも投げたり。普通じゃ考えられないステージをした。光の演出もあって、まるでブラックミサ(邪悪な儀式)だった。

 ピースフルラブ・ロックフェスティバルでも、出るたびに全く違うパフォーマンスをする。普通のミュージシャンとは全く違う世界から入ってくる。これがかっちゃんのすごいところ。彼はステージに全てをかけている。これが本当に見習うところ。

 音楽的には彼には負けないよ。でもステージで誰でもやらないことを本当にやる。どんなことでも恐れない。琉球の歴史の中でも豪傑の1人だと思うよ。

神鬼さん

―神鬼さんはなぜコンディショングリーンに入って、続けたのか。
神鬼 中学3年の秋、夜中に意を決してギター持って浦添からコザに歩いていった。普天間で野宿して、また翌日の夕方ごろにコザまで歩いた。センター通りに着いて、眠いし、おなかもすいていた。歩いていたら横に車が停まった。

 (当時の高級車)マークIIだった。プロレスラーみたいな3人が乗っていて。エディとヒコーが後ろにいて、かっちゃんが運転していた。「坊や、ちょっとお話があるんだけど」というから「何もしないですか」って聞いたよ、恐る恐る。で車の中に入った。それから「ギター弾きなさい、僕らのバンドに入ろうな」と言われた。

 彼らを知っていたから、うれしさと緊張と半々かな。今で言うスカウトだね。ニューヨークレストランに連れて行かれて。Cランチ食べてしまったから「やります」って答えて。そんなの食べたことないよ、高級で当時は。はー、もう。

喜屋武・宮永 かっちゃんは前からシンキの存在を知っていた。コザに遊びに来てギター弾いているのを見たことがあって。「わっし、こんなできる子どもがいるんだな」って言っていた。

 

思い出を語る(右から)宮永英一さん、神鬼さん、喜屋武幸雄さん=5月22日、沖縄市胡屋のコザメトロ(ジャン松元撮影)

―コンディショングリーンでのバンド活動はどうだった。
神鬼 入るときはとにかく真面目に。ギターをものすごい勉強した。かっちゃんとエディが諸見里にアパート借りてくれて、そこで城を構えて。そこから毎日、センター通りまでギター抱えて「俺はこれで身を立てるんだ」って通った。昔はみんな貧しくて、お母さんの生活を助けたいのもあった。

18歳の後半までコンディショングリーンに3年いて、それからかっちゃんとは組まなかった。正直、辞めたかった。

ライブハウスにも兵隊(MP)が入ってきて、威嚇発砲するのよ。そしたらかっちゃんが歌いながらゆっくり台所に行って、包丁を静かに取って後ろに隠して。この拳銃持っている兵隊が振り向いた時に後ろから首締めて、かっちゃんが包丁を突き付けているわけ。

そんなのそばで見ているから、「いつ死ぬのか。もうやめたい」と思っていた。「僕は音楽で、ギターで身を立てたくて来た。ちょっと違うんじゃないのか」ってのがあるじゃない。

―なぜ続けたのか。
神鬼 16歳の少年の能力を見いだしてくれた。その恩義がある。

喜屋武 神鬼という才能はかっちゃんなしに花咲くことはなかった。かっちゃんあってのメンバーだった。

神鬼 でも一番嫌だったのが、かっちゃんがステージで鶏を殺したりするようになって。辺野古でやっている頃に始まったのよ。

僕はあっちでライブする時に泊まるトタン屋根の家があった。ライブが終わったら庭に鶏の首を埋めてお祈りしていた。アイスキャンディーの棒を挿して墓にした。それが嫌だった。鶏の体はエディとかかっちゃんがちゃんと料理して食べていたみたい。

でもいくらパフォーマンスといっても、これしか方法ないのかなと思ってた。その後は19歳からはファイヤーというライブハウスで「神風」というバンドで活動した。音楽に集中した。

喜屋武 ベトナム戦争帰りの人を殺した米兵に向き合った時代だから、ハブ投げたり、鶏殺したりもやるわけだ。

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