論考「制度的差別」を問う(下)ー野村浩也 日本国は民主的帝国主義 琉球人は「植民地原住民」


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 「基地問題を報道しないという基地問題」は、「本土」メディアが生み出した「新たな基地問題」である。この問題の分析に「構造的差別」という概念は不適切である。そもそも「差別」は、平和学の創始者で社会学者のヨハン・ガルトゥングが概念化した「構造的暴力」の下位概念だからだ。つまり、差別とは、定義上、構造的な現象だということが最初から示されており、差別イコール構造的差別なのだ。

 厳密にいうと、「構造的差別」という概念は「構造的構造的差別」と無意味に反復しているにすぎない。これでは、新たに構築された概念が有するはずの付加的説明力を有するはずがない。つまり、「新たな基地問題」という新たな差別を分析できない。ちなみに、厳密な概念の使用を期すなら、「構造的差別」ではなく、「構造的暴力としての差別」となる。

 制度的差別という現実は見えにくい。だが、学問的な概念というレンズを使えば見えてくるようになる。制度的差別という概念こそ、まさしく、現実をよく見えるようにするためのレンズにほかならないからだ。

 もちろん、制度的差別はこれだけではない。日本国の政治的多数決制自体、制度的差別として機能している。それが琉球人の自己決定権と民主主義を奪っているのは明白だからだ。植民地主義批判の視点を導入するなら、現在の日本国の国家体制は、実質的に、民主的帝国主義である。したがって、当然、琉球人が「国民」として同等に処遇されることはない。あくまで「臣民」、すなわち、植民地原住民(被植民者)としてしか処遇されないのはこのためだ。

 また、「ザル経済」も、官民一体の制度的差別としての植民地主義の実践である。実際、他の都道府県でザル経済が大々的に議論される事例は一件もないではないか。しかも、ザル経済とは、全世界の植民地で横行してきた帝国主義的搾取形態なのだ。ただし、他の植民地と異なる点がある。それは、安保負担の過剰な強制という搾取(政治的搾取)を可能にするためのもうひとつの搾取(経済的搾取)にほかならないということだ。

 したがって、貧困化も琉球人の自己責任などではありえない。貧困化とは、基地の押しつけを容易にするための構造的暴力なのだ。よって、琉球人だけで貧困を解決するのは不可能だ。最低でも「振興体制」という財政の植民地化の解体が必要であり、根本的には米軍基地の撤去なくして解決しえない構造的な問題なのである。

 ところで、意外かもしれないが、制度的差別は、日常の言語使用等ミクロなレベルでも強化される。たとえば、日本国籍を有する者の正式名称は「日本人」ではなく「日本国民」である。根拠法は国籍法だ。また、この国の正式名称も「日本」ではなく「日本国」である。根拠法は日本国憲法だ。

 したがって、琉球人(うちなーんちゅ)やアイヌは、正式には、日本人ではなく、日本国民と呼ばなければならない。わたしたちは、やまとぅんちゅ(日本人)ではないからだ。そして、琉球(沖縄)やアイヌモシリ(北海道)も日本(やまとぅ)に含めてはならず、日本国と呼ばなければならない。

 日本国政府やメディアによる正式名称の不使用(忌避?)は、「単一民族主義」という制度的差別を強化する。何気ない「常識」によっても民主的帝国主義体制は維持されているのだ。それが意図的でないなら、まさしく、無意識の植民地主義にほかならない。
 (広島修道大学教授・社会学)