「沖縄返還」 自治獲得達成されず 自己決定権、潜在的に保有 阿部藹<託されたバトン 再考・沖縄の自己決定権>6


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
衆院特別委員会強行採決の翌日、佐藤栄作首相(右)に建議書を手渡す屋良朝苗琉球政府主席(中央)=1971年11月18日、首相官邸

今月17日からスイス・ジュネーブで開催されていたEMRIP(国連先住民族の権利に関する専門家機構)に、PFAS汚染問題に取り組む市民団体「宜野湾ちゅら水会」の代表者が参加した。筆者も口頭声明のサポートや国連人権高等弁務官事務所関係者との面談のアレンジを行った。口頭声明を準備する中で、共同代表の町田直美さんに一番伝えたいことはなんですか、と聞いたところ「沖縄の子どもたちがこれからもこの島で生きていけるようにしたい。安全な水はそのために必要不可欠です」との答えだった。

「宜野湾ちゅら水会」のメンバーが一貫して主張したのが「水の権利」の保護だ。実はこの権利は1966年に採択された自由権規約にも社会権規約にも、そのほかの主要な人権条約にも明示的に記載されていない。これらの人権条約が起草されていた当時は、水の確保が国際的に重要な課題ではなかったからである。しかし、水道事業の民営化に由来する大規模なデモが世界各地で起こったことをきっかけに水の権利を人権と捉える見方が広がり、2002年に社会権規約委員会が「水への権利」に関する一般的意見を発表。その後、水と衛生に関する特別報告者が設置され、10年の国連総会決議で「安全な飲用水に対する人権」が確認された。同様の流れで22年には国連総会決議によって「環境に対する権利」も人権として確認された。

気候変動対策が待ったなしとなっている今、国連人権システムにおいても環境や水への関心が非常に高まっている。その大きな流れの中で、沖縄における米軍や自衛隊基地に由来するPFAS汚染についても、有害物質および廃棄物に関する特別報告者やEMRIPが近年相次いで報告書の中で取り上げるなど、関心が寄せられている。

しかし、そもそも沖縄における水の問題を、国連にまで訴えにいかなければならないのは、なぜだろうか。「宜野湾ちゅら水会」はその理由を「沖縄県が何度も現地調査を要請しても米軍の許可が出ず、日本政府に何度要請しても動かないから」と述べた。自分たちが代々暮らしてきた土地のことなのに、自分たちが決められず、日本政府は自分たちの声に耳を傾けない。この構図は、本連載のテーマである沖縄の人々の自己決定権と同様の問題だと感じる。

前回、筆者は、国連総会決議1541の定義に基づけば、少なくとも返還前まで琉球・沖縄の人々は「非自治地域」に準じる地域の人民として、植民地独立付与宣言に基づく外的な自己決定権を有していたのではないか、と述べた。その上で、当時の沖縄が非自治地域に該当していたならば、1972年の「沖縄返還」をどう捉えるかが重要な意味を持つ。

ここで国連総会決議1541について振り返る。この決議によれば、非自治地域の人々は(1)独立国となる、(2)既存の独立国との連合を形成する、または(3)既存の独立国に統合する―の場合に自治を獲得したとみなされる、とある。琉球・沖縄は「返還」によって日本になったので、一般的には、(3)の既存の独立国への統合に該当すると考えられ、その自己決定権は行使されたということになろう。

今回のEMRIPにも参加していた琉球民族独立総合研究学会の親川志奈子氏は「沖縄(シマ)という窓 クロニクル2008―2022」(岩波書店)で、これら三つの条件に触れた上で「歴史に『もしも』を突きつける余裕はないが、過去から学び、未来へ向けて『三つの選択肢』をテーブルに並べ議論したい」と述べている。

実は、筆者はこれら三つの選択肢は完全に過去のものになってはいない、と考えている。

決議1541をさらに詳しく見ていくと、(3)の既存の独立国へ統合の場合は、「領域の人々が自身の地位の変更に関して完全に理解し、十分に情報を得た上で民主的なプロセスを通じて自由に表明した希望の結果であること」という原則が記されている。しかし、実際の「沖縄返還」がこの原則に反していたことは多くの人が承知だろう。

返還協定の承認と復帰に伴う関係法案については1971年秋の臨時国会で審議された。しかし、その内容を琉球政府が把握したのは開会のわずか半月前だった。そして、そこには琉球・沖縄側が求めていた米軍基地の「即時無条件全面返還」の文字はなく、琉球政府行政主席だった屋良朝苗らは「復帰措置に関する建議書」をまとめることになった。その前文には、次の記述がある。

「…政府ならびに国会はこの沖縄県民の最終的な建議に謙虚に耳を傾けて、県民の中にある不満、不安、疑惑、意見、要求等を十分にくみ取ってもらいたいと思います。」

11月17日午後、この建議書を持った屋良は羽田空港に降り立った。しかし、その直前に衆議院の特別委員会で沖縄返還協定は強行採決されていた。

当時沖縄の多くの人々が“復帰”を歓迎しており、民意が達成されたと見ることもできようが、「既存の独立国への統合」に向けての審議が行われている国会で、琉球・沖縄の人々の意思を代表者でさえ訴える機会が与えられなかった事実を鑑みれば、この“返還”が「人々が自身の地位の変更に関して完全に理解し、十分に情報を得た上で民主的なプロセスを通じて自由に表明した希望の結果」でないことは明らかだ。

これらから、「沖縄返還」では「独立国家との統合による自治の獲得」は達成されておらず、むしろ「独立国家との統合を余儀なくされた」ことを意味するのではないか、さらに、琉球・沖縄の人々が「(アメリカの)非自治地域」に類する地域の人民として有していた自己決定権は行使されておらず、現在も潜在的に有していると考えることが可能だ、という推論も導き出せるのだ。

 (琉球大学客員研究員)
(第4金曜掲載)