「忘れない」遺族の思い今もなお 対馬丸事件から79年 記念館に遺影2枚が追加


この記事を書いた人 Avatar photo 與那嶺 松一郎
小桜の塔の前で、対馬丸事件で亡くなった犠牲者に手を合わせる参列者=22日、那覇市若狭(又吉康秀撮影)

 1944年8月22日の対馬丸事件から79年、那覇市若狭の旭ケ丘公園にある小桜の塔で22日、3年ぶりに慰霊祭が開かれた。公園内に建ち、事件を伝える対馬丸記念館には同日、県内外から子や孫を連れた多くの遺族らの姿が見られた。記念館はこの日、事件で犠牲となった嶋袋全二郎さん(当時9歳・天妃国民学校学童)、久場昭男さん(当時11歳・泊国民学校学童)の遺影を新たに掲示した。

■「戦争になれば犠牲が大きいのは子どもたち」

対馬丸事件で亡くなった犠牲者に焼香や手を合わせる参列者=22日、那覇市若狭の小桜の塔(又吉康秀撮影)

 4年ぶりに一般参列者の制限をなくした慰霊祭は、太陽が照りつけ、むせかえる暑さの中、午前11時に始まった。参列者は汽笛の音に合わせ、まぶたを閉じて黙とうした。静寂の中、祈りをかき消すように軍用機のごう音が響く場面もあった。

 事件を伝えてきた体験者や遺族は高齢化している。体験者で母親と姉を亡くした照屋恒さん(83)は「海に沈んでいる子は、世界が争い合っている姿を見てどう思うのだろう」と静かに慰霊塔を見つめた。若い世代が中心となった遺族に平和への思いを託した。

 11歳で事件を体験し、母ときょうだいの計5人が亡くなった宜志富紹心さん(90)は孫の厚哉さん(24)と足を運んだ。一人生き延びた紹心さんは、孫に体験を語り聞かせてきた。厚哉さんはぎっしり書き込まれたノートを手に「子や孫が引き継いでいかなければ」と誓った。

 コロナ禍中は歌えなかったつしま丸合唱団。小林沙樹さん(17)は4年ぶりに力強い歌声を披露し「何の罪もない、私より年下の子どもたちが命を奪われていくことは、あってはならない」と前を見つめた。

 多くの生存者が漂着した鹿児島県・奄美大島の宇検村の村長や区長らも参列。悲劇を語り継ぎ、平和を願う沖縄の思いの強さを感じ取ったようだった。元山公知(あきら)村長(53)は「今回で2回目。今後も参加したい」と語った。

 慰霊祭の後、報道陣に囲まれた対馬丸記念会の高良政勝理事長(83)はウクライナ侵攻などを念頭に「人間ってなんで戦争をやるんだろう。戦費に使うお金があるなら子どもたちがホームステイして交流に使えるのに」とため息をついた。「分かってほしいのは、戦争になれば子どもたちの犠牲が大きいということ。平良啓子さんが亡くなり、体験者が少なくなっても、伝えることを諦める訳にはいかない。啓子さんの跡を継いで、戦争をしてはいけないと広めていく」と力を込めた。 

■久場弘さん 兄・昭男さんの遺影を掲示 「生きている人も心が安らかに」

久場昭男さんの遺影を前に語る弟の久場弘さん=22日、那覇市若狭の対馬丸記念館

 久場弘さん(83)=那覇市=は、泊国民学校に通っていた兄昭男さん(当時11歳)の遺影を掲示した。昭男さんが亡くなったのは弘さんが4~5歳のころ。幼かったこともあり、兄の記憶はほとんどないものの、両親からは頭が良く運動もできたと聞いていた。

 これまで遺影を自宅に飾ることはなかった。今回初めて対馬丸記念館を訪れ、壁一面に並ぶ遺影の横に兄の写真を掲示した。「兄を含め、犠牲となった方々を改めて供養することができうれしく思う。一生懸命、記念館を運営してくれていることに感謝している」と語った。

 これから記念館を訪れる人には、兄らの遺影を見てほしいと願う。「遺影を見れば、犠牲となった人も、今生きている人も、お互いの心が安らかになると思う」と述べた。 

■嶋袋豊治さん 兄・全二郎さんの写真探し出す 「ようやく父母たちと一緒に」

追加掲示された兄の嶋袋全二郎さんの遺影を前に安堵の思いを語る嶋袋豊治さん=22日、那覇市若狭の対馬丸記念館

 新たに遺影が掲示された嶋袋全二郎さん(当時9歳・天妃国民学校学童)の弟豊治さん(84)=神奈川県厚木市=は、兄の遺影を提供した22日、対馬丸記念館で「ほっとした」と語った。

 全二郎さんは戦前養子に出され、沖縄の郷土研究を続けた元県立図書館長の島袋全発さんが養父にあたる。しかし全発さんは事件後、自宅に全二郎さんの遺影を飾ることはなかったという。「つらかったのかもしれないが、遺影が記念館にないことに悶々としていた」と振り返る。昨年から写真を探し、提供に至った。

 豊治さんは既に亡くなった養父母と実父母の遺影を対馬丸記念館に持参し、全二郎さんの遺影の隣に一緒に飾った。学生帽をかぶった幼い全二郎さんの写真に、「これでようやく両親と養父母と一緒になれたね」と優しく語り掛けていた。

 対馬丸記念館に掲示されている遺影は22日現在、406人。氏名が分かっている犠牲者1484人の約4分の1にとどまっている。

(中村万里子、渡真利優人)