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国際通りでのレッドカーペット「誕生秘話」 沖縄国際映画祭への思い、「カジノ構想」の関係まで…続・大崎洋実行委員長に聞いた【インタビュー全編】 


国際通りでのレッドカーペット「誕生秘話」 沖縄国際映画祭への思い、「カジノ構想」の関係まで…続・大崎洋実行委員長に聞いた【インタビュー全編】  沖縄国際映画祭について語る大崎洋映画祭実行委員長=4月19日午後、那覇市泉崎の琉球新報社
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「島みんなでおーきな祭 第16回沖縄国際映画祭」が16年の歴史に幕を下ろした。映画祭前日の19日、実行委員長の大崎洋さんが琉球新報社を訪れインタビューに応じた。那覇市の国際通りでレッドカーペットを始めた「秘話」や、「新おーきな祭」の展開、カジノ構想など気になるトピックについて大崎さんが答えた。沖縄国際映画祭のPRなどに取り組んできた、県出身で吉本興業所属のお笑い芸人宮川たま子さんも同席し、次に向けた期待を語った。

(聞き手・嘉手苅友也、田吹遥子)

翁長前知事「レッドカーペット敷けないかな」

 ―16回続いた映画祭、思い出深いことは。

「(当時那覇市長だった)前知事の翁長雄志さんから『“奇跡のワンマイル”と言われた国際通りにレッドカーペットを敷けないか、予算はないんだけど…』と声をかけてもらった。それで2014年から国際通りで初めてレッドカーペットを開催した。これまで(国際映画祭の展開で)いろいろ悩んで、悔しい思いをしたり、下を向いたりしながらやってきたけど、(翁長さんの提案には)すごく勇気づけられた」

「もう一つはやはり3.11の時だ。東日本大震災の2週間後ぐらいに第3回の映画祭を開催する予定になっていた。ポスターなどの準備も全部できていたんだけど、東京でも大阪でも歌舞音曲の類いは自粛していた。だがここまで頑張ったスタッフのことも思って、沖縄国際映画祭のポスターの上に『エール』と張り紙を貼って決行した。沖縄から本土にエールを送るのはなかなかないこと。いいか悪いかは別として、3回目に一体感ができたと思った」

「映画祭でも(被災地支援の)募金を集めた。大阪や東京より1円玉がいっぱいあった。沖縄の子どもたちが自らの意思で、1円玉とは言えお金握りしめて募金をした。その時の子供たちがわーって走ってきてくれた時の顔とか、うれしそうに大事そうに1円玉を入れてくれたのは、 僕にとっては思い出深いこと」

レッドカーペットでポーズを取る俳優の賀来千香子さん(右から2人目)ら
=4月21日、那覇市の国際通り

「山を高くする」ことを沖縄としてどうするか

―これまでを改めて振り返ると、2009年にスタートした当初の沖縄国際映画祭は海外作品も多く「国際映画祭」の部分が強かった印象がある。2015年に「おーきな祭」になってから「沖縄」に重点を置くようになったと感じた。16年間の流れの中で、 テーマが変わったことはあったか。

「いろいろな理由があるが、沖縄は地理的優位性でアジアのハブになる。沖縄で産業をどう興すかという時に、青い空、青い海、サービス業、観光業があるけれど、じゃあハワイに、バリに勝てるかとなると、サービス面も含めてまだまだ成長の余地がある。でも山を高くしておかないと底が広がらないから、この『山を高くする』ことを沖縄としてどうするかも(映画祭の)テーマとしてあると思う」

「そのアジアのハブという視点で(開催当初は)中国本土、韓国、香港、台湾、タイ、インドネシア、マレーシア、シンガポールなど各国のメディアに取材をしてもらった。これだけマスコミの人がアジアからいっぱい来ているから、『おらが村』の産品を紹介して販売ルートを作ろうとか、テレビ局が番組の共同制作しようとか、やることはいっぱいあったと思うけど、どこも目立った動きはなかった」

「次は『おらがまち』の産品をCMにして、それをベトナムやマレーシアでも放送したり、どっかの街のビジョンに流したりしながら、その映像の力で産品の情報を共有して販売ルートを作っていければと思ったんだけど、残念ながら動かなかった。その中で、毎回毎回そこに費用を投入するのはあまり得策ではないと思った」

「それならば、映画祭の期間だけじゃなく通年でできる仕組みを作れないかと考えた。宮川たま子が41市町村を回っていろいろなパイプを作ってくれたので、もう一度そこから地域の産品の販売ルートを本土や中国、アジアに作れないかと考えたが、そこもそんなに動かなかった」

レッドカーペットを歩いた(左から)桂文枝、宮川たま子、西川きよし
=21日、那覇市の国際通り

■「新おーきな祭」沖縄の人から言ってほしい

―映画祭を「産業の創出」という視点で考えていた。

「沖縄で観光業以外でどのような産業ができるかと考えた時、エンタメを産業にする島や県はなかなかないので、エンタメを産業にするのはアリかなと思った。(その場合でも)古くからある伝統芸能を守るということがまず第一。でも新しい沖縄の芸能を作らないと自立できない。『おーきな祭』がそのきっかけになればいいと思った」
「僕も別に沖縄に対する気持ちが薄れたわけでもないし、16年やってきて夢破れたとも全く思っていない。新しくリセットできることにワクワクしている」

―「新おーきな祭」の現時点での具体的な展望は。

「ゼロベースでどうするかは、僕が決めることではない。具体的にこうしたいと沖縄の人から言ってほしい。16年でいろいろな方に出会ってお世話にもなったし、楽しいこともいっぱいあった。ただ、沖縄の行政や民間、一般の人たちがこれで終わりにするのか、具体的に行動を起こすかは、僕が決めることではない」

―大崎さんとしては県民から声がかかるのを待っている。

「本来、それが当たり前だと思う。沖縄のことだから」
「毎回毎回、いろんな人に助けてもらって感謝することはいっぱいある。16年で信頼というか『共感』は得られた。新しい『おーきな祭』は『共感』から『共創』にしないといけない」

―沖縄でのエンタメ産業創出には引き続き大崎さんも関わるのか。

「どんな産業、どんな会社でもそうだが、沖縄で(エンタメ産業の創出を)やろうと思うと、すでに沖縄にあるダンススクールなど(エンタメ業界)と競合になるし、悩ましいところ。じゃあ一緒にしましょうって声をかけても『では一緒に』とは普通はならない。ヤマトから来た大崎が来てまた乗っ取るんじゃないか、みたいになってしまうんで」

宮川たまこさん
「でも、応援団はいっぱいいる。大崎さんが「新おーきな祭をしたい」って言う記事を読んで、じゃあ次は俺たちが何かやっていかないといけないという声も上がってきている。そういう人たちには『終わりじゃない、次のステップがありますよ』と言っている。やる気がある人たちから火を付けていったらいいかなと思う」


レッドカーペットでポーズを取るガレッジセールの(左から)川田広樹、ゴリ
=4月21日、那覇市の国際通り

カジノ進出が狙いという噂…真相は

―沖縄でのエンタメ産業創出に関連して、カジノ構想をどう捉えていたのか。

「ゼロ、全くない。マイナス100ぐらい。(吉本興業が)カジノをするような材料も根性も 人脈も、何もないし」

―大崎さんも委員を務めた「基地跡地の未来に関する懇談会」で、2019~2020年頃、カジノが議題に上がったこともあったようだ。

「あれは1年間、その頃の国のトップの人に『基地問題がいつか解決することがあるとしたら、大崎さんは沖縄でどんな産業やればいいと思いますか』と声をかけてもらって、委員になった。沖縄国際映画祭の延長線上で『エンタメ産業の島にしたいと思います』と提案した」
「カジノのことよく知らないけど、一晩に1億や100億を使う人たちとのネットワークを持っているかどうかという問題になる。日本の企業ではそんなところ(ネットワークがある企業)はまずない。まして吉本という会社がそんな財力もネットワークも根性も勘所もなにもないから(カジノをするなんて)あり得ないよね」

―カジノ構想が沖縄で実現できないから吉本興業が沖縄国際映画祭から撤退した、と見る人もいる。

「噂で、沖縄へのカジノ進出が目当てで大崎や吉本が沖縄で映画祭やったとか言われるけど、そんなことはあり得ない。 どうぞやってくださいって言われても、いや、それはいいですって言う」

―大崎さんの中で沖縄でのカジノ構想はなかった。

「いやあればあったで、利益もあるならそれを子どもの教育とか福祉に使ってほしい。沖縄県民に受け入れられるのであれば。ギャンブル中毒になったらどうするとか、その辺のケアや手当てがある程度できて、法律上もきちっとできて、なおかつ、利益が上がった時に、困っている子どもたち、お母さんやおばあちゃんにお金が流れるような仕組みが作れるなら(カジノが)来てほしいなと思います。金持ちだけ(がもうける仕組み)になるなら、別に(カジノは)来なくていいしね」

―沖縄県は(カジノを含めた)IRを受け入れないという姿勢だ。

「でも、それはどうだろう。沖縄に工場とか大きな企業を誘致すると言っても、結局、県民の若者たちは、その下請けで下働きするようになって、それは雇用創出ではあるけど、その分マイナスなところもいっぱいあるから悩ましい。その辺の仕組みも含めて考える必要がある。そのためには教育が必要。教育格差はデジタルで(地域的な)ハンデではなくなってきたけど、やっぱり子どもや若い人たちが世界中で戦えるようになってほしいと思う」

レッドカーペットのクロージングであいさつする大崎洋映画祭実行委員長
=4月21日午後、那覇市のてんぶす広場(又吉康秀撮影)