『孤高のハンセン病医師』 隔離策 支持した社会とは


社会
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『孤高のハンセン病医師』藤野豊著 六花出版・1944円

 小笠原登は、ハンセン病患者をことごとく療養所に収容しようとした癩(らい)予防法の下で、自らの医学的知見に従い、療養所外での医療に身を投じた医師である。本書は新しく発見された小笠原の「日記」を論文等と併せ読むことで、医療現場での苦悩や、隔離の恐怖におびえ不安の中に生きる患者たちとの日常を描き出している。

 小笠原は、京都帝国大学付属医院皮膚科特別研究室の医療実践から、ハンセン病は強烈な伝染病ではなく全患者の隔離は不要であり、治癒するケースもあるとの認識を持っていた。絶対隔離のみに偏る政策では本来行われるべき治療がおろそかになり、患者を病から救えないと考えていた。その小笠原に対し攻撃の先鋒(せんぽう)を務めたのが、後に国頭愛楽園(現在の沖縄愛楽園)2代目園長に就任する早田皓だった。1944年、沖縄に赴任した絶対隔離推進者の早田は「無らいの島」実現のため、第32軍の武力を背景にした患者収容に全面協力する。結果、愛楽園では沖縄戦で入所者の3人に1人が亡くなった。どのような思想の持ち主が絶対隔離に携わったのか、第1章の論戦は必読である。

 「理性的なハンセン病対策」を主張した小笠原ではあるが、一方で警察や行政と連携し、逃亡した患者の動向把握に努めていた。それは、強制労働、強制断種・堕胎を課すような国立療養所への隔離から患者を守るためであったとはいえ、絶対隔離政策の枠内にあったことは否めない。国策の誤りを追及し続けてきた筆者は、国策に抗(あらが)った小笠原の存在に希望を見いだしたが、無批判に神格化することの危険性に幾度となく立ち戻る。

 同時に本書では、小笠原の学説が当時から決して奇異なものでなかったことにも触れる。ではなぜ、彼の医学的知見が日本のハンセン病政策に反映されなかったのか。阻んだものへの怒りが込み上げる。医師、学者、マスメディア、政治家らは自らの専門性や倫理観に基づき向き合っていたか、市民は何をしてきたか。この問いはそのまま、今の社会に映し出される。

 (吉川由紀・沖縄国際大学非常勤講師)

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 ふじの・ゆたか 1952年横浜市生まれ。日本近現代史研究者。著書に「ハンセン病と戦後民主主義-なぜ隔離は強化されたのか」など。

孤高のハンセン病医師――小笠原登「日記」を読む
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