船上に母の血、沈む兄 尖閣戦時遭難慰霊祭 家族失った宮城さん参列


この記事を書いた人 新里 哲
慰霊之碑前で当時のことを振り返る宮城アイ子さん=3日、石垣市新川

 【石垣】戦時中の1945年7月3日に石垣島から台湾へ向かっていた疎開船2隻が米軍機の爆撃を受け、住民が魚釣島に漂着し取り残された尖閣列島戦時遭難事件。遭難者の一人で当時一緒にいた両親、祖母、兄2人と弟1人の家族6人を一度に失った宮城アイ子さん(76)=神奈川県横浜市=が3日、石垣市内で開かれた尖閣列島戦時遭難死没者慰霊祭に初めて参列した。5歳だった当時の体験や心境を初めて明かした。宮城さんは「みんなを悼むことができた」と涙を流し「あのような体験を孫たちにさせたくない。平和な世界を願っている」と祈った。

 爆撃を受けた疎開船2隻のうち、1隻は宮城さんの父の船だった。「騒ぎで眠りから覚めたら爆撃を受けていた」と宮城さんは当時を振り返る。一緒にいた母の姿が見えない代わりに、母のものとみられる血が船上に散っていた。

 爆撃と混乱の中、海に投げ出されボートにしがみつくことができたが、祖母と祖母におぶられていた弟、兄は海の中に沈んだ。隣にいた兄がゆっくり水中に入っていく様子は今でもまぶたに焼き付いて忘れられない。船長だった父ともう1人の兄も犠牲になった。

 油の臭いが漂う海に浮かび、焼ける父の船を横目に他の人たちと、爆撃を免れたもう1隻にたどり着いた。魚釣島では飢えに苦しみながら生き延び、石垣島に戻った後は軍隊に行っていた兄2人と親戚の家を転々とした。

 戦後71年がたち、初めて家族の名が刻まれた慰霊碑を訪れた宮城さんは「事件を思い出したくなくて来られなかった」と胸中を吐露。父の船が沈んだことも心の傷になっており、これまで関係者から遠ざかっていた。しかし慰霊祭に参加してきた次男が体調を崩したこともあり、遺族として今回の参列を決めた。

 宮城さんは「少し吹っ切れた。来て良かった」と話し「戦争はあってはならない。平和を願っている」と力を込めた。
(謝花史哲)