原爆投下機 飛来か 読谷補助飛行場 45年6月の写真、米軍機多数


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日本軍が造った(右側の)北から南へ伸びる滑走路を、さらに2100メートルの長さに延長し米軍が完成させたV字型の滑走路を持つ読谷補助飛行場。横断するように誘導路も整備し駐機場を備えた。読谷村史編集室によると、写真にはB32とみられる機体、P38やグラマンなどの米軍機の配備が確認できる

 【読谷】沖縄戦での組織的戦闘が終わった1945年6月23日に米軍が撮影したとみられる読谷補助飛行場の航空写真が見つかり、読谷村史編集室へ贈られた。写真の飛行場は規模が拡張され、米軍機の駐機エリアを随所に配置、米軍機が多数駐機しているのが分かる。米軍上陸後、約3カ月で一変した飛行場を捉えている。

 読谷補助飛行場は、米軍が読谷上陸後間もなく、整備に着手。米軍が鹿児島などへの出撃基地した事実がある。

 長崎へ原爆投下したB29が給油で読谷へ飛来し給油した後、テニアン島へ向かった記録があるが、着陸したのが同補助飛行場だったのか、近接したボーロー飛行場(現在の同村宇座、高志保など4集落)に着陸したのかがいまだに判然としていない。写真は、新たな手掛かりになると期待が寄せられている。

 村史編集室の豊田純志さんによると、B29は当初、硫黄島に向かう計画だったが、ガス欠で読谷へ進路変更したという。

 豊田さんは「6月23日の段階で、補助飛行場にこれだけ多くの飛行機があり、活用されていたのが初めて分かった。長崎へ原爆を投下したB29もここに来ていたのではと推測される。貴重な写真だ」と話している。

 航空写真の縁の部分には、英語で読谷補助飛行場を指す「ヨンタン エアフィールド」と記載され、撮影が6月23日と記されている。

 写真を入手したのは鹿児島県知覧町在住で、空襲・戦災を記録する会全国連絡会議南薩の空襲を記録する会代表を務める國崎潤さん。

 2011年にネットオークションで出品されていたのを見つけ、競り落とした。國崎さんは「地元にあってこそ価値のある写真だと思う」と話している。

 現在返還されている読谷補助飛行場は、村中央に位置し、長さ約2100メートルの滑走路があった。ボーローポイント(ボーロー飛行場)は長さ約2590メートルの滑走路が造られ、後にミサイル基地に転用された。その後に返還され、現在は農地などになっている。

※注:國崎潤さんの「崎」は、「大」が「立」の下の横棒なし