嘉陽宗義さん死去 辺野古反対訴え続け 94歳


この記事を書いた人 新里 哲
辺野古への新基地建設反対を訴える嘉陽宗義さん=2014年12月21日、名護市辺野古

 【名護】米軍普天間飛行場の移設先の名護市辺野古で座り込みを続けてきた「命を守る会」の嘉陽宗義さんが3日午前8時45分ごろ、肺炎のため宜野座村の病院で死去した。94歳。名護市辺野古出身。告別式は未定。出棺日は5日午前10時45分を予定している。

 米軍普天間飛行場の移設先に辺野古案が浮上した1996年当時から、辺野古への基地建設反対の意志を示してきた。太平洋戦争で徴兵された嘉陽さんは、後輩が上官に理不尽に怒られた際、かばって自らが体罰を受けた。戦場で足を負傷し、戦争の理不尽さやむごさを体験した思いから、反戦平和を呼び掛けてきた。妻の芳子さん(88)は「正義感の強い人だった。戦争は二度とやってはいけないと言っていた。死ぬまでずっと、辺野古に基地が造られるか造られないかを心配していた。それが唯一の心残りかもしれない」と声を落とした。

 嘉陽さんは98年、命を守る会の中に高齢者でつくるグループ「ジュゴンの会」を設立し、その代表を務めた。高齢で体が不自由ながらも、車椅子で辺野古の浜のテントを何度も訪れた。稲嶺進名護市長は「辺野古の闘いの象徴の人だった。オジーの遺志をしっかりと受け継いでいく」と悼んだ。

 ヘリ基地反対協議会の安次富浩共同代表は「オジーは辺野古に絶対に基地を造らせないという意志の固まりだった。最後まで闘いたいという思いが強かった」としのんだ。

 「命を守る会」で嘉陽さんと行動を共にしてきた辺野古の西川征夫さん(72)は「20年前の決起集会や(会を)立ち上げた時の状況が頭の中に浮かぶ。最初から最後まで頑張ってくれたオジー、ご苦労さま」と声を掛けた。

英文へ→Icon of Henoko movement Muneyoshi Kayo passes away