【宜野湾】1996年の日米特別行動委員会(SACO)最終報告から2日で20年たった。宜野湾市民の念願だった米軍普天間飛行場返還合意だったが、SACOで「本島東側海岸」への移設が決まった。沖縄が二者択一を迫られる原点。比嘉盛光元市長(78)=市赤道=は「県内移設条件さえ無ければとっくに返還されている。条件さえ無ければ私も思想信条を捨てる必要はなかった」と振り返った。
SACOの翌97年7月、無条件全面返還を掲げて当選した比嘉さんは就任後、移設先に言及しなかった。「本心は当然、県内移設してほしくない。だが行政の長として飛行場の返還を優先せざるを得ない」。県民としての思いと、市長としての判断は異なっていた。
当時、返還後の跡地利用で地権者の補償など課題が山積していた。「県内移設を否定したまま、国と交渉の席に着くことはできない」。99年に県内移設容認の立場を表明すると支持者の反発は激しかった。「名護市民の命も同じでしょう」と問われると答えに詰まった。自問自答し、眠れない日々が続いた。
今も飛行場を巡る報道を見るたび、苦い思いがよみがえる。「普天間は魔物になってしまった」。「最低でも県外」と公約する鳩山政権が誕生した2009年「ついに解決を見る」と希望を抱いた。その分、政権が辺野古移設に回帰した時の落胆は大きかった。新聞に投稿しようと憤りを書きつづったが、何度も封筒に入れては取り出し、送ることができなかった。
「普天間飛行場よ何処(どこ)へ」と題した文にはSACOについて「思わぬ条件付きであった。誰しも県内移設反対である。条件付き返還に県民は再びこれに翻弄(ほんろう)されることになった」と思いが記されている。
辺野古移設を巡って昨年10月、国と県が法廷闘争に入ったことを報道で知り、目の前が暗くなった。「県民を二分し、これまで返還が実現していない最大の要因は県内移設条件だ」。20年前に決まった県内移設条件に、比嘉さんは今も取りつかれている。