〈姉、弟と共に玉城村(現南城市)の奥武島から熊本県小国町へと疎開した大城ミヨさんは、送られた善養寺での生活を始め、現地の国民学校へ通います〉
最初は食糧の配給がありましたが、そのうち自給自足になりました。
姉はしょうゆ屋で働いて、みそやしょうゆをもらって米と物々交換していました。私も田舎の方へ行って麦畑や田んぼの手伝いをして、お金や品物をもらって生活をしていました。米と交換をして塩を買おうとしたときに、「ヤミ商売だから」と巡査に取り上げられたりもしました。
毎日「沖縄に帰りたい」と思っていました。ひもじくて、寂しくて、食糧もない。あまりにひもじくて、牛や馬にやるメリケン(小麦粉)のかすを買ってきて、団子にして食べたりもしました。
熊本に行ったころは、学校で「沖縄人」と言われてからかわれました。「沖縄の人はシラミがいて不潔だから近寄るな」ということも聞かれ、憤慨していました。小国にも兵隊がたくさん来て、学校の講堂に泊まり込んでいました。城間というウチナーンチュの兵隊がいて、彼が腕立て伏せの訓練をしていたら、(上官から)「君は尻が高い」と殴られたり蹴られたりしていました。差別されているようでかわいそうでした。今でも忘れられません。
熊本でも軍事教育が行われていました。涌蓋山と学校の運動場との間で赤と白の手旗信号の練習をして、モールス信号の試験もありました。空襲はありませんでしたが、空襲警報が鳴ったことは2度ほどあり、その場で伏せたり山へ逃げたりしました。
冬はものすごく寒くて、沖縄から着の身着のまま来ていたので防寒着もなかった。こんなに寒いとも知りませんでした。冬になると、霜が降りた麦畑で麦踏みもしました。
※続きは3月26日付紙面をご覧ください。