『沖縄という名』 郷愁深め発酵する写真


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
『沖縄という名』浜昇著 ソリレス書店・各4968円

 浜昇の写真集『沖縄という名』のページを繰りながら、正直戸惑いを覚えてしまった。ぼくとつとしていながらも、ひょうひょうとした軽さも有しているような、あるいは「南島」のじっとりとした暗さと乾いた明るさとが奇妙に同居しているような、あまり見たことのない類いの「沖縄写真」だったからだ。

 本書は、モノクロ写真で構成された『シマ それ自身への終わりなき時へ』、『positions 1969-1988』とカラーで構成された『かなたへの海』の3冊からなり、浜が暮らす東京で1969年に撮られた「沖縄デー」の写真を除いたほとんどが、沖縄が日本に「復帰」した72年から95年までの間に撮影されている。まるでサイレントのロードムービーを見ているかのように静謐(せいひつ)な画面が淡々と、しかしリズミカルに続いていくのだが、ところどころに挿入された移動を示すカットに象徴されるように、写真家は旅人であることから徹底して逸脱することがない。沖縄と奄美の島々に刻まれた歴史の傷痕やそこに生きる人々と自然とが長い時間をかけて形成してきた風景や生活の微細なきめに本土からの旅人としてそっと触れること。それがこの写真家が自らに課した唯一のルールであるかのように見える。

 浜の師にあたる東松照明の写真集『太陽の鉛筆』(75年)のように、沖縄の離島を含む広範囲を撮影地としていながらも、それらの写真をひとつにより合わせる言葉や演劇性も、沖縄と自らの距離を性急に埋め合わせようとする意思もここにはなく、断片が断片として、遠さが遠さとして投げ出されている。本土から沖縄を訪れた先達たちとの批評的距離や撮影時との距離が、そうした抑制的ともいえる「ポジション」を選ばせているのかもしれない。

 沖縄の日本「復帰」を期にこの地に撮影に赴いた写真家は、あまたいる。それらはこの40年という時の経過に耐えきれず、腐敗してしまったものも多かっただろうが、浜の写真はそれがもともと持っていた郷愁の色をより深めながら発酵したかのようだ。時そのものへの哀悼の薫りが、本書のそこかしこから匂い立ってくる。(小原真史・キュレーター)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 はま・のぼる 1946年、東京生まれ。75年、ワークショップ東松照明教室参加。76年、自主ギャラリー「PUT」設立に参加。写真集に90年「FROM SCRATCH」(写真公園林)など。