<未来に伝える沖縄戦>疎開中の船に米軍攻撃 石垣正子さん〈上〉


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 石垣市大川で生まれた石垣正子さん(83)=同市大川=は戦争末期の1945年6月30日の夕暮れ、戦争を避けるためとして、軍の命令で石垣島から台湾に向かう最後の疎開船に祖母と2人で乗りました。当時小学4年生で、父は召集されマニラに行き、母や弟たちは既に台湾に疎開していました。ぽんぽん船と呼ばれる漁船、第一千早丸、第五千早丸の2隻で、石垣島を出発した後、海上で米軍機の攻撃を受け、1隻が沈没し、残る1隻が尖閣諸島の無人島に漂着しました。船に乗っていた人たち約180人が約1カ月半遭難し、飢えに苦しみました。石垣市立川平中学3年の當銘和輝さん(14)と八重山高校2年の高宮春花さん(16)の2人が奇跡的に救助された石垣さんから話を聞きました。

台湾疎開の途中、米軍機の機銃掃射を受け、エンジンが止まった船が漂流した経験を話す石垣正子さん(右)=石垣市大川の石垣さんの自宅

 私が疎開する頃、石垣島でも空襲がひどくなって山の中への強制疎開が相次いでいました。私も島内の白水という場所に逃げようとしましたが、軍の通知で台湾に疎開することになりました。2隻のうち1隻は市新川と大川の住民が乗り、もう1隻に登野城と石垣の住民が一緒でした。2隻に180人くらいが乗り込み、そのまま地べたに座り、荷物もたくさん載っていました。

 石垣島を出発してしばらくは穏やかに過ぎましたが、数日後だったと思います。突然、敵機が飛んできました。船に乗っているのはほとんどが年寄りや女、子ども。若い男性はわずかでした。それを知っているのか知らないのか、敵機は低空飛行してきて容赦なくばらばらと機銃を撃ってきました。回ってきてはばらばらと。

 隠れる所もない小さな船。祖母はとっさに近くにあった柳行李(竹で編んだ箱形の入れ物)で私を覆って守ろうとしました。私はうずくまった格好になって、その時の様子は見ていません。ただ機銃の音だけが耳に残っています。やがて機銃の音がやみ、起き上がって辺たりを見ると大変な状況になっていました。

※続きは4月22日付紙面をご覧ください。