【島人の目】安楽死と高齢社会


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 2017年2月27日、イタリアの著名DJファボさんが、スイスの病院で薬物摂取による幇助(ほうじょ)付きの自殺をした。いゆる安楽死である。その是非についてイタリアでまた大論争が起こった

 ファボさんは14年6月、交通事故で失明し、首から下が完全にまひした上に、絶え間のない激痛が全身を襲うという後遺症に見舞われた。彼は死に際して公表した音声メッセージで、自らのその状況を「ただ痛みと痛みと痛みがあるだけの地獄」と形容した。

 カトリックの影響が強いイタリアでは安楽死は認められていない。そこでファボさんは安楽死が容認されているスイスで死ぬことを選択した。ファボさんのように回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願うならば、これを公的に認めるのが筋ではないか。

 唐突なようだが、それは高齢者の生のあり方にも示唆を与える重要事案だと思う。つまり長命者は「どこまで」また「どんな風に」生きるべきか、という問いへの答えの一つだ。高齢化社会で「超高齢」になって介護まで必要になった者が、「自らの意志」に基づいて将来の死を選択することができるかどうか。またそうすることは是か非か、という議論がなされるべきだ。

 高齢者が死ぬリスクよりも、むしろ「無駄に長生きするリスク」の方が高いようにさえ見える現代では、誰もが将来自らでは考えることも身動きもできなくなる時を想定し、生き続けるか否かの意思表示を元気なうちにする、いわゆるリビング・ウイルの仕組みが作られてもいい。

 いかに死ぬかという問いはつまり、いかに生きるか、という問いである。生は死がなければ完結しない。要するに死は生の一部にほかならないのだ。ならば死に対しても、逃げることのない論争が大いに起こるべきである。
(仲宗根雅則 イタリア在、TVディレテクター)