沖縄が「日本復帰」を迎えた1972年5月15日は、戦後沖縄に移り住んだ奄美の人たちにとって「非琉球人」と呼ばれた立場から解放された日でもあった。53年12月25日の奄美群島の復帰後、生まれ島を思い、3万とも5万とも言われる人々が米統治下の沖縄を生きた。当時の身分は「外国人」。沖縄住民との差別に耐え“二度目の日本復帰”を待ち望んだ。
◇「半永住」を許可
「NO.31649」。青山恵昭さん(73)=浦添市=の手元に残る「在留許可証明書」には高等弁務官によって「半永住」を許可された際の登録番号が記されている。青山さんは台湾で生まれ、戦後鹿児島県への引き揚げを経て母親の古里、国頭村に移った。父の故郷は与論島で青山さんの本籍地も「鹿児島県大島郡与論村」。本籍地が沖縄ではないために外国人扱いされ、在留許可証明書の携帯が義務付けられた。
高校生の頃、母親が入院し家計が苦しくなった。生活困窮家庭への「救済」制度や授業料免除を申請したが、受け付けた区長から「非琉球人なので、資格はない」と断られた。青山さんは72年5月15日を「『非琉球人』の立場から解放されて同じ国民になれる喜びを感じていた」と振り返る。
青山さんは2013年、政府が「主権回復の日」の式典を開いた時に「沖縄を切り捨てて、何が『主権回復』かと怒りが沸いた」と語る。米施政権下で日米に翻弄(ほんろう)された歴史を抱えながら、今は沖縄の不条理を目の当たりにしている。
◇住民に損得勘定
53年8月8日、訪日中だったダレス米国務長官の声明で奄美復帰は突然決まった。奄美群島では喜びに沸いたが、在沖の奄美出身者は政治、行政、経済など各界の要職から追放された。納税しても、投票権すら68年まで与えられず、沖縄住民と明確に差別され続けた。現実が重くのしかかる中、重荷に拍車をかけたのは沖縄住民の視線だった。
「この際お気の毒ではあるが、沖縄自体の暮らし向きのために日本に引き取ってもらいたいという強硬論者がいる」(53年8月20日付、琉球新報)。戦後8年間、「同胞」として復興に共に尽くした奄美の人々に対して損得勘定を隠さない、沖縄住民の冷たく、貧しい雰囲気も漂っていた。
◇各地の郷友結集
53年12月1日、在沖奄美連合会(現・沖縄奄美連合会)が各地にあった地区奄美会を束ねる形で結成された。連合会は親睦や融和が目的だが、復帰まで処遇改善の相談が絶えなかった。
沖縄奄美連合会の奥田末吉会長の家には59年に在沖奄美連合会が出した「奄美人名鑑」の複写が残されている。作成経緯は不明だが、奥田さんは「みんな故郷に飢えていた。抱える問題を共有して助け合おうという気持ちがあったのだろう」と思いを巡らせる。現在、奥田さん自身も奄美出身者の調査を続けている。奥田さんは「苦労をした人たちの思いを受け継ぎ、次代につなぐことが私の役目だ」と力を込める。(池田哲平)