「目を閉じれば全てが思い浮かぶ。松とか家とか池とか畑とか」。宜野湾市宜野湾で生まれ育った玉那覇祐正さん(84)は遠い昔を懐かしむように古里の風景を語り出した。
国の天然記念物に指定された街道「宜野湾並松」(ジノーンナンマチ)が集落の南北を貫いていた。「平らな土地で、道がきれいで近所の家を簡単に行ったり来たりできた。サトウキビやイモがよくできる土地で、いい暮らしをしていた」と目を細めた。そして、こう付け加えた。「もし戦争が来なかったら、今もいい所だった」
大切なものは置いてきた
玉那覇さんの古里は米軍普天間飛行場のフェンスの向こうにある。宜野湾村(現宜野湾市)の中心地だった字宜野湾には村役場や学校、市場、闘牛場があった。約300世帯(1903年時点)が暮らす、のどかな集落だった。沖縄戦から72年、玉那覇さんは今も古里に戻ることができない。
1945年3月23日、米軍の空襲が始まった。当時11歳だった玉那覇さんは母、きょうだいとガマ(自然壕)に身を寄せた。その後、上陸した米軍の進攻を逃れ、地上に出て村内を逃げ惑った末、真志喜のガマで米軍に捕まり、収容地区を転々とした。
父は「防衛隊」として日本軍に動員されていた。収容所に連行される日本兵の中に父の姿を探した。「お父さんではないかと何度も見に行ったが、戻ってこなかった」
父の遺骨は見つかっていない。父の持ち物や写真も失った。「大切な物は壕に置いていた。誰も飛行場になるとは思わなかった」。避難中に持ち歩いた急須が父の面影を思い起こす唯一の形見となった。戦前、持ち手が壊れた際に父が自転車の部品を再利用して修理したものだった。
宜野湾村内での居住が許され、玉那覇さんと家族も移った。しかし、食料不足は深刻でソテツを食べて飢えをしのいだ。マラリアにも苦しんだ。「私たちのような母子家庭を助ける余裕のある人はいなかった。ひもじくて、ひもじくて」
普天間、辺野古…板挟みの宜野湾市民
終戦から約2年後、現在の宜野湾区で暮らし始めた。元の集落は飛行場内に消えていた。「家は形もない。瓦一つも落ちていないほど敷きならされていた」。残された土地で一から生活を家計を支えるため、15歳のころから米兵の靴磨きや庭の手入れをして働いた。
現在地に落ち着いても安心できる日々はほど遠かった。48年8月、武装した米軍所属のフィリピン人兵士が女性を拉致しようと集落に押し入り、応戦した男性たちに発砲した。翌朝、撃たれた男性が手で地面をかきむしる姿勢のまま死んでいるのが見つかった。「フィリピナー事件」として地域で語り継がれている。今も米兵の事件や事故が報じられるたび、惨劇が脳裏をよぎる。「いつになれば沖縄は安心して平和に暮らせるのかね」
戦争は大切な人や物、土地を奪ったが古里の記憶は消えることはなかった。古里の存在をなかったことにされたくない思いから、字宜野湾郷友会は2016年、戦前の集落を再現したイメージ映像を作った。インターネット上などで流布される「何もない場所に基地ができた」という誤った認識を正すためだった。
日米両政府が普天間飛行場の返還を合意して21年が過ぎた。政府は名護市辺野古への移設が条件だと固執し、新基地建設に反対する県と対立が続いている。「こちらも早く返してほしいが、辺野古の海も埋め立ててほしくない。つらいですね、つらいです」
玉那覇さんから笑顔が消え、思い詰めた表情で言葉を絞り出した。
(明真南斗)