【ブラジル】名字を頼りに訪ねると 家族の物語、継承の大切さ


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 ブラジルでは沖縄県人会や各市町村人会で文化継承の活動が行われている。私もその活動をしている1人だが、若い世代も徐々にそれを学び取っていると思う。

 さらに個人的なレベルとなると、それぞれの家族や親戚の行事があり、私は何かあるたびにできるだけ先輩方から話を聞くようにしている。

 しかし、2世、3世であることを理由に「どうせわからないでしょ」と、そのまま教えないで済まそうとする先輩方も中にはいる。それには悪気はなく、言葉の壁が大きい。難しい話をするのは誰もがおっくうに感じる。ましてや不慣れなポルトガル語で説明することや、世代ギャップを考えるとお互いに遠慮をしてしまいがちだ。

 私は、日本語を学んだおかげでいろいろと先輩方から教えを受けることができたが、相手がウチナーグチとなるとまだまだ会話についていけない。

 文化継承をうたう今日、私は一族の物語を継承することも大切だと感じている。

 私は沖縄のルーツに目覚め、幸い色んな方に話を聞いたりすることができたが、時間や言葉の壁でそれがかなわなかった人も少なくないだろう。

 母のいとこにあたる渡名喜ミチコさんがその一例だろう。ルーツ探しで系図を読んだりするために私は母とミチコさんに連れられ、サンパウロ市内のある渡名喜家を訪問した。

 名字が同じだからと適当に選んで訪問したわけではなかった。名字はもちろん、男性たちの名前が名乗頭が同じで似ており、たまたま両家を知っていた母が聞いてみたら「親戚だよ、連れてきなさい」と言われたからだ。訪ねた渡名喜家のおじさんのお父さんが昔、系図をわざわざ沖縄に行って写したので、それを見せてくれるという話でもあった。

 ちなみにミチコさんは宜野湾市我如古の渡名喜家で、訪問した渡名喜家は中城村出身だ。

 早速、系図を机に広げたかと思うと、家主も戸惑うようだったので、私は身を乗り出してミチコさんの夫の庸弘さんやおしゅうとの庸清さんの名前を探し始めた。何家族が分家して、また浦添市など他の市町村に引っ越したことなど系図には記載されていた。だが、宜野湾市に行った分家の記載がない。しかし、ミチコさんのおしゅうとと訪問した家のあるじのお父さんは親戚として付き合っていたことが話の流れで判明していた。

 そもそも、ミチコさんは夫やおしゅうとから親戚のことは何も聞かされていない。おしゅうとも誰に会うか、家族には黙ったまま田舎からサンパウロへ遊びに行っていたらしい。夫にも先立たれ、今では渡名喜家が宜野湾市から移民した年さえ聞いていない。

 名乗頭のことも聞かされていなかったが、名乗に一種のパターンがあったことに気付き、日本語はネーティブではないが、取りあえず同じ音で始まる名前を子供たちに付けていた。

 結局、ミチコさんは夫やおしゅうとの名前を見つけきれず、行き詰まった状態だ。おしゅうとの庸清さんが生きていたら105歳になる。その親が庸次さん。もし、宜野湾市からブラジルへ渡った渡名喜庸清さんのルーツについて知っている人がいれば、ぜひ連絡を取りたいそうだ。
(城間セルソ明秀通信員)