歌集「Cafe de Colmarで」 全てのあとに得たウィット


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歌集「Cafe de Colmarで」新城貞夫著 砂子屋書房・2700円

 前衛短歌の旗手であった塚本邦雄の高い評価を受けた新城貞夫氏は、1963年に第一歌集を上梓している。「ああ革命、喰いつぐ奴ら憤(いか)りつつ六月の死は美化されやすく」などを所載して、マルクス、キルケゴール、レーニンなどへの傾倒を見せる耽美(たんび)的な青年の自序は、「喫茶LIBERTEにて」とくくられている。

 それから半世紀以上が過ぎ、この度『Cafe de Colmarで』が出版された。「金色にふる音楽と言わなくにわれは恋いたり血(ち)腥(なまぐさ)き神」、「決起まさに到らんとして危うきに地下よりなればその声澄まず」、「無名なれば生贄のごとく祭られて学生ひとりまた殺されき」。神話、危機、死とそれを祀(まつ)ることについての思索が、今回も試みられている。

 その一方で、変化が見られたことも確かだ。「いちにんのアメリカ兵も殺しえずやはりあなたは弱かった 父よ」、「赤旗の林なす広場過ぎ行きつ革命なんか信じない僕ら」、「患むことの極みに咲くを詩と呼びて退嬰の心か花を愛すは」。父に対する意識をより強め、革命に失望し、自らの耽美な詩心に兆す老いに気付く。

 そういえば、「不意に発つ」の章には「ほどほどに生きてはみたり独活の花」といった句が付されている。「独活(うど)の大木」という慣用句を思えば、晩春に咲く独活の花こそまさしく「ほどほどに生きてはみた」という状態で、まだ完全な無用の長物になりきってないということになる。

 談林俳諧風のウイットさが見られ、こうした特徴は「かなかなと詠嘆調に鳴きておりいまわの際の茅蜩(ひぐらし)の声」、「ぬばたまの闇に戦ぎて樹々見えぬさらばVeniceよ ならばPenisよ」といった短歌にも表れている。

 全てのあとにウイットを得たこと。「風船をひとつ浮かべし霧の街 殺さず生かせ廃人にして」、「雪の夜にひと死ぬことの平穏を不可思議としていつより思う」。新たな統治の方法や死をラッピングしてしまう美学。こうした底冷のするような歌の傍らにあるウイットが、陳腐なニヒリズムなどではないことは明白である。

 (安里琉太・俳人、『群青』副編集長)

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 しんじょう・さだお 1938年サイパン生まれ、歌人。73年に「現代短歌体系」11巻、現代新鋭集に百首採録。主な作品に「夏、暗い罠が……」「アジアの片隅で 新城貞夫歌文集」。

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