『海の落し子たち』 危うく戯れ、揺れる言葉


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『海の落し子たち』佐藤洋子著 砂子屋書房・2700円

 船から下りた後も、しばらく身体に揺れが残っていて、ふとした拍子に足元がふらつくことがある。『海の落し子たち』を読んで感じたのはそんな後から来る「揺れ」である。わたしたちが日常使っている言葉、とりわけ書き言葉は、整合的である。意味が破綻せずにつながっていく。そうでなければ困るからだ。

 しかし、そんな統語拘束や整合性に収まらない不安な精神や身体や言葉だってある。不意に言葉はやってきて思いがけないイメージを喚起して動いていく。佐藤洋子の詩はいつもこんな風に始まる。

 「入り江の、小さな窪(くぼ)みの浜だったし/海は遠慮がちに寄ってきて引き返していく」。

 「入り江」と「窪み」と「浜」という言葉それぞれの意味するところが微妙なところで切れたりズレたりしてつながっていく。また、「だったし」が次の一行にどのようにつながっているのかも曖昧である。共有しているはずの言葉の関係が解けて揺れる。窪みはどこにあるのか、と抱えなおして読むと、それが単に形状としての窪みではなく心の窪みであり身体の「窪み」なのだと分かる。「窪み」が暗示しているのは津波がえぐり取ったものと読むこともできるが、よく聞き取れない呟(つぶや)き声のように、意味が確定されることはない。

 「ばびぶべばば」という作品。最後の五行は、

「絶たれた、景/そこここに大急ぎで掘った大穴がある/覆った青いビニールシートが波打つたび寒いものが開く/だから、まま/滑舌の練習のまま」。

 沖縄に縁があり東北の仙台に住む佐藤洋子の「海」がここでは青いビニールシートに変容して不吉に波打っている。失われた景色を幻視するまなざしが揺れているのだ。夢が常に現実の浸食を受けるように、現実もまた夢によって変容する。言葉もまた危うく戯れ揺れている。

 いま、わたしたちは詩から何を受け取るか。そんな問いが成り立つのかどうかわからないが、破格な言語の、「窪み」や「大穴」、すなわち真にプライベートな言葉の痛みとともにある詩が沈黙に寄り添おうとしている。

(詩人・矢口哲男)

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 さとう・ようこ 宮城県仙台市在住。母親が北谷町出身。詩集「(海)子、ニライカナイのうたを織った」で第25回山之口貘賞受賞。主な詩集に「呼ぶこという鳥がいて」など。

海の落し子たち―詩集