11日に東村高江で発生した米軍ヘリ炎上事故で、琉球新報は北部地域を担当する北部支社に加え、中部支社や本社からも記者が取材現場に走った。住民の命を脅かす過重な米軍基地負担があらためて浮き彫りとなった出来事だ。15日から始まった「新聞週間」に際し、11日夕から12日未明にかけての記者の動きを、記者が共有する「メーリングリスト」の内容を軸に振り返り、取材の裏側にある思いを紹介する。
現場到着 できるだけ多くの声を
メールで共有 締め切りまで6時間
11日、那覇市天久の琉球新報本社編集局。朝刊の紙面構成を話し合うデスク会議終了後の午後5時52分、記者たちが情報を共有する「基地メーリングリスト」に一報が届いた。
「高江でヘリが落ちたと連絡あり黒煙上がってらさあ。現場むかってます」。
発信者は北部報道部で東村を担当する阪口彩子だ。「上がってるそう」とするのを慌てて打ち間違えた。
「メール読みましたか」。本社編集局内にいた社会部厚生担当の池田哲平の声は上ずっていた。社会部デスクが立ち上がり、局内の記者たちに大声で伝えた。「高江でヘリが落ちたという情報がある」
編集局内に緊張が一気に走った。締め切りの6時間前だった。
◇情報錯綜
事故の情報は名護市内の北部支社に寄せられた電話が情報源だった。部署や担当を問わず、本社や沖縄市にある中部支社の記者が高江へ急行した。本社に残った記者も情報収集に動いた。
「機種や基地内外など詳細不明」(午後5時59分)
「米軍ヘリという話や民間のセスナという話もあるそう」(午後6時1分)
政治部基地担当の仲井間郁江、社会部警察担当の当間詩朗ら複数の記者が取材ルートを通じて情報を集め、メールを送った。しかし、詳細は判然としない。警察情報として「墜落したのはオスプレイ」とメールを寄せた記者もいた。
◇号外は「墜落」
号外の大見出しは「高江米軍ヘリ墜落」。その後に入る複数の情報で「墜落」の表記が改まる。
本社にいた社会部フリーキャップの古堅一樹は現場の阪口から連絡を受け、住民の目撃談として午後8時29分のメールで「不時着した後に炎上した。米兵が7人歩いてきた」と共有した。
社会部警察班キャップの沖田有吾は午後8時42分と44分のメールで「県警幹部 落ちてはいない。降りた後に出火してる。現場からの報告でも」 「墜落と断定するのは危険な気がする。着陸後出火、とか?」と提起した。
米側の発表は「緊急着陸」。編集局内で議論し、住民の目撃証言や各関係機関の情報を総合的に判断し、「不時着し、炎上した」と表記することを確認し、記者にメールで知らせた。時刻は午後10時を過ぎていた。
◇規制線
規制線が張られる前の午後7時ごろ、現場近くに到着した阪口は、事故を撮影した男性の自宅に入り、話を聞いた。「大きな音がパーンと鳴って炎が2倍になった。オイル系の焼けた臭いがした」と聞いた。「できるだけ多くの人の声を集めないといけない。本当にけが人は出ていないのか」と怖くなった。
「現場の規制線近くに着いた」。午後8時41分、社会部フリーの前森智香子がメールを送った。現場に近づこうにも事故機は規制線の向こうにあった。
現場に集まった記者は高江集落で住民の声を集めた。「区民が不安に思っていたことが生活圏で起きた」。中部報道部の安富智希は午後9時47分のメールで仲嶺久美子高江区長の声をつづった。ショックで憔悴(しょうすい)しきった区長の顔を見た安富は「地元の安全すら守れない。この国の安全保障政策は変だ」と思わずにはいられなかった。
那覇でも衝撃が広がった。翁長雄志知事の「ほんとに、とんでもない話だ」と怒りの声を政治部キャップの滝本匠は午後10時40分のメールに記した。
◇一夜明けて
北部報道部の友寄開は12日午前6時8分にメールで「現場から一旦引き上げる」と送信した。社会部の池田と連携し、夜通しで監視を続けていた友寄。眠気と疲労が蓄積する中で「長丁場になる。休まないといけない。でも、何か起きた場合、そこにいられないのはもどかしい」と感じつつ、早朝から取材する記者たちに後を託し、いったん現場から離れた。
朝日が昇り、明るくなった。現場に到着した北部報道部長の宮里努は「屋上から黒焦げのヘリがよく見える。兵士のほか県警も事故現場に」(午前6時47分)と送信した。
午後2時、北部報道部の友寄、赤嶺可有、南部報道部の嘉数陽、社会部の前森らが現場を引き継いだ。「米軍が放射能チェッカー使い始めた」(午後3時12分)とメールで伝えた。
東京の記者も情報収集を続けた。防衛省は12日午後、同型機の飛行停止を期限を付けずに要求したと説明した。しかし、米軍は飛行停止を96時間に制限することを同日午前で決め、日本にも伝えていたことが後で分かった。東京報道部で防衛省を担当する仲村良太は午後7時14分、メールで「防衛の飛行停止要求は茶番じゃないか」と送った。仲村は「米軍が決めたことには何も言えない日本政府に無力感を感じた」とする。
14日午後5時現在、環境調査や機体がいつ運び出されるのかなど現場は予断を許さない状況が続く。琉球新報は輪番で記者を派遣し、取材している。
〈担当記者の思い〉「痛み」、伝わっているか
11日午後5時50分ごろ、高江売店隣に住む高越史明さん(67)との電話を終えた。すぐに「高江でヘリがおちたと連絡あり黒煙あがってらさあ(るそう)」と、第一報を編集局の記者の大半に届くメールで伝えた。まだヘリが落ちたとは断定できない。「お願いだから間違いであってほしい」という思いは、7分後に消えた。各記者が「黒煙は間違いない」「集落に落ちた」と取材先から得た情報をどんどん送ってきた。胃のあたりが、ずしりと重くなるのが分かった。
現場に向かうまでの間、高江の車集落に住む人の顔が頭に浮かんでいた。東村を担当して2年目。昨年も高江はヘリパッド建設で揺れた。高江の一軒一軒を訪ねてヘリパッドの賛否を問うアンケートを実施したので、約130人の思いは痛いほど分かっていた。あのとき、紙面で実名を取り上げるのは嫌がったが、ほとんどの人が家の中に呼び入れてヘリパッドに対する思いを話してくれた。「次は取材じゃなくて遊びに来なさいね」と言ってくれる人もいた。
そんな人たちの心を、悲しみと怒りでズタズタにしているのが、米軍と日本政府だった。事故翌日、自民党の岸田文雄政調会長は現場を視察したが、ヘリが炎上した牧草地の所有者である西銘晃さん(64)とは会わなかった。政府は「北部訓練場の4千ヘクタールを返還し負担軽減が進んでいる」と繰り返すが、高江の人はそれを「まやかし」と言う。岸田氏が現場に向かっている時、晃さんの妻・美恵子さん(63)は「(負担軽減に)なってるか! 山返しても人住めないのに。もう少し別の道は考えられないのか」と吐き捨てるように言った。
その言葉が頭にあったからか、東村役場で「原因の究明、再発防止」と同じ単語を繰り返す岸田氏に、釈然としないものを感じていた。政治家という立場があるにしても、その立場を超えたところに共通の痛みがあるのではないか。事故に衝撃を受けた高江の人の痛みが、政府の人間にどれだけ伝わったのだろうか。
西銘夫妻は、マスコミに対し事故当日、家の中に入れて取材や出稿作業に協力した。ソファで記事を書いていると、お茶を出して「バナナ食べるかい」と言った。午後7時ごろから集まった報道陣が全員家を出たのは、午前0時近かった。帰り際、美恵子さんは「頑張りましょうね」と笑顔で言った。この笑顔を守っていきたいと思った。一睡もできなかった翌朝、美恵子さんの笑顔を思い出して「さぁ、頑張ろう」と自分に声を掛けていた。
(阪口彩子)